言葉にならない
−3ー
「最悪」
声に出す必要もない。絵に書いたような『最悪』だ。
こんな状態になってしまったら、もう取り返しが付かない。
鍋に完全に焦げ付いてしまったチョコレートに水をかけて、
後で片付けるから!!とお母さんに謝って、
チョコレートの匂いが漂ううちを出た。
あんな状態……もう食べ物とはおおよそ言えない物体、譲くんには見せられなかった。
こんなことなら綺麗にラッピングされたおいしいのを素直に探せばよかった。
トリュフとか。
いつものように譲くんは思案顔で口に入れて、そして……
レシピを考えた後、暫くするとそれでヒントを得た新作を作ってくれる。
それでよかったのに。
何であんな意地を張ったんだろう。
馬鹿馬鹿馬鹿。
なんとか、これなら!というものを見つけて、わたしは急いで家に戻った。
特に時間の約束はしていない。
でも、もう早く渡してしまいたかった。
そしてふいに思い出す。
あの子のチョコレートは譲くんは受け取ったんだろうか。
あの子だけじゃない。他の子からのチョコレートも。
昨日は譲くんとすれ違ったまま、会えずじまい。
譲くんからは明日ケーキを焼きますっていうメールがきたっきり。
なんとなくわたしからはメールを返さなかった。
なんとなく。
もやもやが頭の中をくるくる回る。
なんとなく、いらいらしながら台所の惨劇と格闘していたら、インターフォンが鳴った。
いやな予感がして玄関に行けば、譲くんがお母さんと話していた。
「先輩、おはようございます」
「…………譲くん、おはよう」
うまく笑えなくて、目をそらしたわたしを譲くんは静かな目で見た。
本当はあがってほしくなかったのに。
お母さんが譲くんを家にあげてしまう。
もう、どうにでもなれ!若干やけっぱちになって
譲くんにチョコレートを渡した。
わたしが差し出した包みを怪訝そうな顔で譲くんは受け取った。
いつもならありがとうって笑ってくれるのに。
「先輩。何か隠してることないんですか?」
「……」
むっつりと黙り込んだわたしを譲くんじっと見つめた。
わたしは、譲くんの顔が見れない。
「チョコレートの香りがしたんですが。俺に渡すのは、これ、なんですか」
「……」
「その格好、これ、今買って来たもの、なんですね」
「……失敗しちゃったから」
ばつが悪くなり、目をそらしたわたしの顔をじっと見た後、
譲くんは溜息をついた。
「あの匂いじゃ、大変なことになってるんじゃないですか?
……片付け、手伝いますよ」
「いいよ」
「終わったら、お茶、飲みましょう?」
すっと台所へ向かった譲くんを止められなかった。
譲くんは台所を見て立ちすくむ。
「どうしたら、こんな風になるんですか?」
譲くんは流しで水びたしになっているチョコレートを悲しそうに見た。
「よくわかんない」
「……こんな適当に作って上手くいくわけないじゃないですか!」
「だってお母さんとか結構料理するときテキトーだよ?」
「料理と、お菓子作りは違うんです。
それにおばさんは基礎の積み重ねがあるから『適当に』出来るんです。
そもそも適当の使い方が間違ってる。
適当って言うのはその時その時に適したとおりにやるってことです。
なんとなくとか、いきあたりばったりとは違います」
ぽたり、と涙が落ちた。
こんな時に泣いたら卑怯だ。泣きたくなんかないのに。
譲くんは溜息をついた。
「泣いたってダメです」
「……だって、譲くんに負けたくなかったんだもん」
「…………そんな気持ちで、これを作っていたんですか。
おいしく作りたいとか、綺麗に作りたいとか、俺に喜んで欲しいとか
そういう気持ちを込めて作ってくれたんじゃないんですね」
「ちが……」
「違わないでしょう。
……そもそも貴方がくれたチョコレートだってごまかしだ。
俺に何かあげないとまずいから。そう思って用意したものでしょう。
これをあげておけば大丈夫でしょ?
貴方がくれたとき、そういう表情をしていました。
……そんなチョコレートなら、俺は一生貴方から貰えなくてもいいです」
譲くんは静かな瞳でわたしを見て、そしてゆっくりと目をそらした。
まるで、何かを諦めるような顔をして。
「少し、……言い過ぎたかもしれません。
でも、俺貴方から貰えるの楽しみにしていたんですよ。
どんなものでも、貴方の気持ちが込められたものならそれでよかったのに。
ずっと、……ずっと俺が欲しかったものだから。
俺がどれだけ、貴方から義理じゃないチョコレートが欲しかったか、
きっと貴方にはわからないんでしょうね」
譲くんはテーブルにそっと綺麗な箱を置いた。
「俺からの分は、ここに置いておきます。
別に習慣だからじゃない。貴方の喜ぶ顔が見たくて作ったものです。
貴方の喜ぶ顔が見たくて、貴方に俺の気持ちに気付いて欲しくて。
毎年貴方にこれを贈り続けたけれど。
貴方には伝わっていなかったみたいですね」
「……えっ、」
「貴方とようやく両想いになれたって嬉しかったけれど。
結局俺の気持ちのほうが重くて……これじゃ、片想いみたいだ。
こんな気持ちばかり、貴方に押し付けたくないのに」
譲くんは前髪をくしゃりとかきあげると、大きな溜息をついて、
玄関へ歩き出した。
「……少し頭を冷やします。
せっかくチョコ貰えたのに、……喜べなくてすみません」
すれ違いに聞こえたその声は、とても寂しい声で。
わたしはようやく譲くんに酷いことをした、と気付いた。
あやまりたいのに。
なんて言っていいかわからない。
譲くんに何も言えないままわたしは、扉の閉じる音を聞いていた。
「馬鹿ねえ」
ぽん、と肩を叩かれてわたしは我にかえった。
「立ち聞きするつもりじゃなかったんだけど、きこえちゃったわ。
望美、あなたが悪いわよ〜」
「うん……」
「本当に馬鹿ねえ。
あなたずーっと気付かないんだもの。見ていて切なくなったわ。
これ、開けるわよ。
あなたと譲くんの気持ちの違いがあんたにもきっとわかるわ」
お母さんは苦笑いしながら、するりとリボンを解いた。
いい色ねえ、お母さんはしげしげとリボンを見つめるとわたしの首に
それをかけてリボン結びにした。
「この色望美が好きな色でしょ」
「……うん」
リボンも、箱の色もわたしの好きな色だった。
そっと蓋を開ければ。
綺麗にコーティングされた四角いケーキ。
リクエストした、あのケーキだ。
綺麗でいて華美すぎない、ちょうどいい大きさのケーキ。
ちょうど四人分。
細部まで丁寧に仕上げられている。
「綺麗ね。
譲くんは望美がこれをあけた瞬間にいつもみたいに歓声をあげるのを
楽しみにしてこれ作ったんでしょうね。
あなたの喜ぶ顔が見たくて。その瞬間を待ちわびていたのよ」
お母さんはじっとケーキを見つめた後、丁寧に蓋を閉じ、
大事に大事にかかえあげると冷蔵庫にいれた。
「毎年毎年チョコレートを届けに来るときの譲くんの顔は忘れられないわ。
あんなに必死な瞳をしていたのに、望美の前では普通にしようと頑張って。
あなたが箱を開ける瞬間を息を飲むように見つめていた。
あなたが喜ぶその顔を一瞬でも見逃さないように。
譲くんのケーキ、いつもみんなで戴いていたけど、申し訳なく思っていたのよ?
みんなで食べたほうがおいしいって譲くんは言うけど。
望美の為だけに作ったケーキだったんだもの。
おいしいなあっていつも思っていたけど、それは譲くんの愛情だったのよ。
ケーキの作り方を見ながら、ちゃんとあなたの好きな味に仕上げてたんだから
あなたにはわからないかもしれないけどね」
「そうなんだ……」
「ただレシピ通りに作れば失敗しないわ。
でも譲くんはあなたの為に作っていたから、色々工夫していたの。
あなたに喜んで欲しかったからよ。そうでないと意味がなかったからなの。
それにね」
「……?」
お母さんはくすりと思い出し笑いをした。
「最初から譲くんだって成功し続けたわけでもなかったのよ。
譲くんだってあんまり上手じゃない時期はあったの。
どうやったら綺麗なスポンジが焼けますか?とか
生クリームの立てるときの基準は、とか。
結構質問されてたのよ、昔は〜」
「そうなんだ!」
「あなたがいないときばかりだったから、知らなくて当然だけど。
譲くんにだってそういう時はあったのよ。
いきなりうまくはなれないわ。今はもうわたしよりも上手いけどね。
あなたには過ぎた彼氏だとは思うけど、譲くんはあなたが振り向いてくれるのを
ずっと、ずーっと待ってたのよ。
義理チョコじゃないチョコレートずーっと欲しかったんじゃない?
それを望美があんなことしちゃ、怒るわよ」
「…………」
「ほら、早く謝ってきなさい。
わたしも早くこのケーキ食べたいんだから。
貴方達が仲直りしてくれないと食べられないじゃない。
ああ、譲くんのロイヤルミルクティー飲みたいわ〜。
リクエスト、お願いね」
どん!と背中を押され、わたしは走り出した。
何て言ったらいいか、なんてわからない。
でも謝らなくちゃ。
玄関を飛び出したわたしを見送った後。
お母さんはつぶやいた。
「本当に、譲くんは望美に甘いわね。
これ、見た目はオペラだけど、コーヒークリームが挟まっていないのを
本当にオペラって言うのかしら」