玉草




  −1−


 秋が深まって、庭の木々が紅葉しだした。
 この京に呼ばれて、もう一年になるんだ。
 長過ぎた秋に幸鷹さんと、皆で冬を呼び、そして新しい年を呼んだ。
 その一年ももう終わりに向かっている。
 去年の今頃には幸鷹さんとまさか、桜を京で眺める日が来るなんて思っていなかった。
 自分はずっとあの現代に帰るのだとずっと思っていたから。
 でも帰らないと決めた。幸鷹さんといっしょにいたかったから。
 帰らなかったことを後悔してはいない。今は、まだ。
 後悔する日は来るんだろうか。今はそれが少し怖い。
 少しずつ、少しずつ逢瀬を重ねて。二人の絆は深まっていっている気がする。
 一緒にいれば幸せでいられる。幸鷹さんと離れるなんて考えられない。
 失う、と頭に思い浮かべただけでずきりと胸が痛む。
 わたしのものだ、なんて思ったことはないのに、失う、と考えただけで痛い。
 あの暖かな腕が、穏やかな微笑みが、思慮深くみえる眼鏡の奥に潜む瞳の情熱が。
 いつか消えてしまったり、他の誰かのものになってしまったら。
 本当にわたしのものにできたらいいのに。
 自分の口から零れた言葉に、自分で驚く。
 本当にわたしの口から出た言葉なの、これは?
 去年の秋はこんな気持ちは知らなかったのに。
 こんな気持ちは。
 貴方に出逢って切ない、という言葉の意味を初めて知った。

 帰りたいと本気で願ったことはまだない。
 こっちに残ったからこそ、京の桜を二人で見れた。それはとても幸せなことだ。
 二人で眺めた神泉苑の桜も幸鷹さんの新しいお邸の桜も綺麗だった。
 次の春も、その次の春も幸鷹さんとその桜を眺められたらいい、と思う。
 そんな春が過ぎて、夏が来て。
 盆地の夏は暑いとは聞いていたけれど、ここまでだとは思わなかった。
 ノースリーブはおろか、半袖もない、
 アイスクリームはおろか、冷たい飲み物もない、
 そして当たり前だけれど、クーラーもない。
 倒れずには済んだけれど、暑いものは暑かった。
 翡翠さんや、泉水さんに彰紋君はこまごまと心づくしのものを送ってくれた。
 とても貴重な氷、とか。果物、とか。
 冷蔵庫を空けたら冷たい麦茶が冷えていたり、氷をたくさん使えたりする生活が
 恋しくなかったといえば嘘になる。
 でも皆は不慣れなわたしにとても気を使ってくれたので、
 不満なんて言える筈もなかった。
 ここではそれが当たり前なのだから。
 京で生きる限り、毎年暑い夏が訪れる。
 それは覚悟をしなければいけないことのひとつだ。
 暑さで疲弊していくわたしを幸鷹さんは心苦しそうな目で見る。
 だって幸鷹さんは知っているから。
 もとの世界の過ごしやすさも、便利さも。
 幸鷹さんは出来るだけのことは全てしてくれた。
 けれど、そんなわたしを見るのは少し辛いようだった。
 帰ったほうが良かったのでは、という言葉を何度飲み込んだのを見ただろう。
 その度わたしは出来るだけ笑顔で返した。
 もう帰りたいと願っても帰れない。
 だから幸鷹さんにそんな顔をさせたくなくて。
 じっと暑さに耐え、初めての夏は終わった。

 でもとてもいい思い出もあった。
 イサトくんや、勝真さんも一緒に蛍を見に行ったこと。
 イサトくんが秘密の場所を教えてくれて、皆でそこで蛍を見た。
 あんなにたくさんの蛍は初めて見た、と思う。
 わたしが見た蛍は缶詰の蛍だったから。
 ふわふわと草原を揺れる無数の光。
 これは現代に帰ったら見れないもののひとつだったと思う。
 来年もまた見たいですね、と言ったら幸鷹さんも頷いてくれた。
 その後に開いた宴も皆揃ってくれて、わたしはとても嬉しかった。
 京に留まったわたしの為にみんな出来うる限りのことをしてくれる。
 かつて八葉の勤めをしていてくれたときよりも、
 みんな責任も重くなって集まるのも難しいのに本当にありがたかった。
 
 そんな風に時は過ぎ、わたしは京で二度目の秋を迎えていた。
 幸鷹さんの奥さん、北の方になるということが決まっていたので、
 なんの身分もないわたしを義理の娘として、四条の尼君は迎えてくれた。
 晴れて縁続きになった紫姫は本当に嬉しいと喜んでくれた。
 正確には叔母になるのだろうけれど、対外的には姉で通すことになった。
 花梨さま、と名前で呼ぶことにもようやく慣れて。
 二人で話す時間はとても楽しかった。
 正式に幸鷹さんの妻になれば、暫くは幸鷹さんが四条の館に婿として通い、
 その後幸鷹さんのお邸に移る。
 いつまでこうして自由に話せるかわからないから。
 時々会いに来るし、文もやりとりしようね。
 そう約束していても、何だか少し寂しい。
 幸鷹さんは貴方の好きなように、と言ってくれるけれど、
 この世界の貴族の奥さんはそんなに外には出歩かないみたいだから。
 友達となかなか会えなくなるのは寂しかった。
 幸鷹さんはそれをわかってくれている。
 どうにかしたい、と考えてくれている。
 それが嬉しくて。
 逢いにきてくれる幸鷹さんに成果を見せたかったから。
 手習いも、和歌も、琴も頑張った。
 立派な奥さんの条件には、縫い物や染物、薫物の上手なのも入っているから
 紫姫と共に練習した。
 少しずつ、少しずつ出来るようになったことが増えていくのは楽しい。
 今まで勉強とかあんまり好きじゃなかったけれど、
 好きな人の為になら頑張れる。
 そんな現金な自分がおかしかった。


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