玉草




  −5−


 夕餉が終わって、貴方は墨をすり始めた。
 なんとなく面白くなくて、誰かに文でも?と問えば、
 貴方は笑って違いますと言ってくれた。
 折角こうしてふたりきりなのに、貴方が私の方を向いてくれないことに拗ねている。
 そんな自分がおかしいと思うものの、折角の二人きりの時間なのだからという気持ちが勝った。
 そんな私の気持ちを知ってか知らずか貴方は一心に、墨をすり、
 おもむろに筆をとり、からすうりに顔を描いている。
 ああ、そういうことか。私はようやく理解した。

「……ハロウィン、ですか?」
「わかりました?」
「……ええ。
 確かに、少し色が似ていますね」
「そうですよね。
 なんか懐かしいなあ、と思って」
 
 一心に机に向かう貴方の表情は見えない。
 私は記憶を辿るようにして、久しぶりの言葉を口にした。

「trick or treat! ……でしたね」
「えっ!!
 幸鷹さん、発音いいですね」
「……少し外国で暮らしていたこともありますから。
 おかしくれなきゃいたずらするぞ、だったでしょうか。
 ……もし、私がいたずらをしたら、貴方なら何をくれますか?」

 振り向いて欲しくて、手をとれば貴方は筆を取り落とす。
 私はそれを手にとって、貴方の顔に近づけた。

「顔に落書きというのも古典的でいいですね」

 ふりかえり、灯りの中で見る貴方の頬は濡れていた。
 貴方は泣いていたのか。

「えっ、あのっ」

 うろたえて、貴方は袖で涙を拭う。
 私に見られたくなかったのだろう。
 貴方はあいたほうの手で顔を隠そうとする。
 ……もとの世界を、家族を思い出していたのだろう。
 帰りたいとか、そういうわけではなく、
 ただ懐かしさと寂しさに胸が詰まって貴方は泣いていたのだろうか。

「泣いても、良いのですよ」
「でも、幸鷹さんに迷惑をかけたく、な……」

 私はそれ以上貴方に言わせたくなくて口を塞いだ。
 貴方は目を白黒させて、一瞬私を拒んだけれど、
 私は貴方を逃がせなかった。
 つまり、こういうことなのだ。
 貴方が私に捕らえられている、ということ。
 貴方に私が囚われてしまった、ということ。

「……貴方が寂しいと思うことをやめろ、などとは私には言えません。
 紫姫の前では言い難いことも私には言って欲しいのです。
 今なら、二人きり。
 貴方の思うことを伝えて欲しいのです。
 私は、貴方の気持ちを知りたい。
 今、貴方が何を想い、何を見ているのか」
「幸鷹さ…」
「貴方が家族を想うのは当然のこと。
 それを奪ったのは私なのだから。
 私で埋められるとは思ってはいません。
 私で全て埋めて差し上げられたらいいと思っても、
 私にはそんな魅力はない。ただのつまらない男です。
 でも、貴方が私を選んでくださった。出来る限りのことはさせて下さい。
 貴方とずっと一緒にいたい。生涯をともにしたい。」

 かき抱けば、貴方もまた私を抱いてくれている。
 貴方が寂しくない筈はない。
 私も寂しさに襲われることがある。
 母もいて、生活の基盤もあり、八年暮らした記憶もあるのに。
 別れた家族の顔や思い出、極めたかった学問のこと、
 思い出したかつての将来の夢や希望。
 時折、ひたひたと波のように寄せるその郷愁に包まれて窒息しそうになる。
 自分が今立っている場所がわからなくなるような感覚。
 ここが現実だ、そう思っても。
 懐かしいかの場所の残像はまるで今帰ったかのように鮮やかに押し寄せては消える。
 もとの世界の夢を見て、一人で目覚めたとき、傍に貴方にいて欲しいと
 何度願ったことだろう。
 貴方がいる場所が、現実なのだと。私は心のどこかで知っている。
 私でさえそうなのだ。
 全てを失った貴方は、いったいどれ程の空虚を胸に抱えているのだろう。
 私は貴方からどれ程のものを奪ってしまったのか。 
 それを埋めることは私に出来ることなのか。
 けれど私には、貴方の手を離すことなど出来やしない。
 そして貴方の涙に私は両親から受けた恩を思い知る。

「……今、思えば。
 記憶の書き換えは真に両親の愛情であったとわかります」
「何故、ですか?」
「もし私に記憶が残っていて。
 もとの世界に帰れないと知れば。
 私は絶望して命を絶つこともありえた。
 この世界に馴染むことを拒否し、閉じこもった可能性だってある。
 ……勿論私は京に降り立った時には記憶を失っていました。
 けれど、不自由のない生活を潤滑に進めるにはやはり、
 記憶の書き換えは有効だったのでしょう。
 そうだったからこそ私は八年の時を生き延びられたのだと今は、そう思います」
「幸鷹さんが自殺なんて」
「けれどこうして貴方と出会うことが出来た。
 私だってそれ程強くはないのです。
 貴方に出会ってそれを思い知りました。
 貴方の悲しみを埋めたいと願っても、私にはそんな力は無いのかもしれない」
「そんな!」
「自分が情けなくなります。
 でも、貴方とは分かち合いたいどんなことも。出来うる限り。
 貴方をわかりたいのです。
 ……ですから、どんなことでも話してください。
 寂しいとか、辛いとか、どんなことでも」

 貴方は堪えきれずに泣いた。
 思えば貴方が泣いているのを見るのは初めてのことかもしれない。
 夜も共にして、貴方を全て知った気になっていた自分を恥じた。
 貴方は寂しさを出来るだけ出さないように懸命に耐えていた。
 時折寂しさが透けて見えることがあっても、
 人に心配をかけまいと全て自分の中で処理をしようとしていた。
 そうさせていたのは私だったのかもしれない。
 抱きよせる腕に力が入りすぎたのか、貴方は腕の中で呻いた。

「申し訳ありません」
「……大丈夫です。
 泣いて少しすっきりしました。
 折角のお休みなのに、ごめんなさい」
「……二人きりだからこそ、普段出来ない話も話せるのではありませんか?
 そんな風に遠慮なさらないで下さい」
「でも」

 ああ、まったくこの人は。

「少しは甘えてくださると嬉しいのですが。
 貴方は優しいけれど、甘えるのが下手ですね」
「そうですか?
 結構甘えていると思うんですけど」
「どうでしょうか」
「これ以上甘えたら」
「……」
「幸鷹さんの負担になってしまいそうで」

 負担?  そんな甘やかな負担などいくらでも背負いたいのに、貴方は。
 私を喜ばせる天才なのだろうか。

「もっと甘えてくださって良いんですよ?
 その方が私も嬉しい」
「だって、幸鷹さん凄く忙しいのに。
 もっと一緒にいたい、なんて言えないです」
 
 その一言がどれほど私を喜ばせたか、貴方にはわからないようだった。
 だから耳元で私も同じ気持ちですよ、と囁けば。
 貴方は恥ずかしさで一杯になったのか、私を突き飛ばして逃げようとした。
 その衝撃で、文机からからすうりが落ちる。
 貴方は大切そうにそれを拾い上げた。
 見れば、折角書いた顔は墨を弾いてしまって、消えてしまっている。
 貴方は残念そうな顔をした。
 貴方に、そんな顔をさせたくない。どうすれば書けるのかを少し考えてみた。

「墨に少しにかわを混ぜれば、書ける様な気がします。
 明日、試してみませんか。
 後、何か甘いものを用意させましょう。
 折角のハロウィンですからね。
 貴方と私しか知りえないからささやかですけれど。催しましょう」
「はい」

 はにかんで頷いた貴方に悪戯を思いつく。

「trick or treat!」
「えっ」
「私はお菓子よりもっと甘いものが欲しいのですが、
 貴方は私はそれを下さいますか?」

 悪戯っぽく笑った私に貴方は観念したようにもたれかかった。
 私は貴方の手からそっとからすうりを取って文机にそっと載せなおすと、
 ふっと手元の灯りを消した。


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