香合せ
−京ED−
どんどん風が水気を帯びて重く、強くなっていく。
朝はそれほど曇っていなかったのにみるみるうちに暗い雲に京の空が覆われて、
一瞬百鬼夜行のことを思い出した。
あんな風に禍々しい風じゃない。気の乱れている気配も無い。大丈夫。
女房さんの中には怖がる人もいたので、大丈夫だよと声をかけて回る。
野分が来る前に、幸鷹さんから京の要所を確かめてから帰りますと文が届いた。
気をつけて帰ってきてくださいね、と届けてくれた検非違使に伝えて貰う。
普段なら泉殿や、御所でのお仕事が終わったら自宅で検非違使別当としての
仕事をしている筈なのに、今日は戻りが遅い。
この邸の仕度は来てくれた検非違使の皆さんが済ませてくれた。
終わりましたと報告に来てくれた後、皆さんには家に帰ってもらった。
皆さんにも守るべき自分の家があるのだからここに留まる理由はない。
雨が降り出す前に皆さんを帰すことが出来てよかった。
幸鷹さんもそれは良かったときっと言ってくれるだろう。
お昼を回る頃に、勝真さんと、イサトくんが様子を見に来てくれた。
普通なら御簾越し、几帳越しの対面だけれど八葉の皆は特別なのだと、
邸の皆さんには伝えてあるけれどやっぱりこの世界の常識からすれば変なのかもしれない。
廂に出れば、庭に勝真さんとイサトくんがいた。
「あがってくれないの?」
「見回りの途中にちょっと寄っただけだからな」
「幸鷹はいないのかよ」
「うん、お仕事してるよ」
「……かー、相変わらずだな!」
「仕事熱心というかなんというか、だな。
検非違使と京職で連携して見回りをしているからラクと言えばラクなんだが」
「勝真さんとイサトくんこそ、わざわざ立ち寄ってくれてありがとう。
そうやって皆が心にかけてくれているから幸鷹さんも安心して仕事ができるんだと思うよ」
そう言えば、イサトくんも勝真さんもまんざらでもないようだった。
「頼忠はまだ郷里に帰ってるのか」
「うん、そうみたいだね。
正式に棟梁になってお嫁さんを迎えて。
もうすぐ子供が生まれるんじゃなかったっけ」
「へぇー、めでたいじゃん」
「もう、大分……経つもんな」
勝真さんが優しい目をしてわたしを見た。
「もう大分大きいな。あんまり無理すんなよ」
「大丈夫だって」
「お前そそっかしいから安心できねえんだよ。
ったく、こんなお前を幸鷹の奴放っておいてお役目大事なんてよ」
「幸鷹さんらしいでしょ」
「……まあなー」
あんまり無理して転んだりしないようにな!
念を押すだけ押して二人は帰った。
雨が降り出す前に、せめて強まる前には帰って来れますように。
廂から、格子越しの外を見ていたら、体に障りますからもそっと内へお入りくださいと
古参の女房さんにしかられてしまった。
四条の館にいた頃から世話をしてくれている人だ。
わたしと同じくらいの娘がいたらしい彼女はわたしを本当の娘のように労わってくれる。
四条の館の方は大丈夫だろうか。
わたしが口に出すのは本当は筋が違うのかもしれないけれど、
何人かの検非違使が四条の館に回ってくれた。
もう深苑君も童殿上という歳でもない。男君として張り切って指揮をとっているのだろうか。
そんなことを考えているうちにぼたり、ぼたりと大粒の雨が降ってきた。
みるみるうちに庭の緑の色が深くなっていき、風がさらに強さを増した。
「幸鷹さん、大丈夫かな」
とりあえず、雨に濡れて帰ってくることになってしまったのなら。
風をよけられる場所に火桶を準備する。
暖かい飲み物も要るだろう。女房さんに湯を沸かして貰う。
乾いた衣類にすぐに着替えられるように、衣も。
そんな準備をしていたら車寄せの方から音がした。
ばたばたと人の気配がして
「……大丈夫でしたか?」
大丈夫じゃなさそうなのはどう見ても幸鷹さんのほうなのに。
相変わらず貴方は自分のことは後回しだ。
ただ今戻りました。のいつもの言葉の前にそんなことを言う貴方がやっぱり好きだと思う。
「お帰りなさい。
幸鷹さんこそ、大丈夫でしたか?」
「降られてしまいました。間に合うと思っていたのに」
「ぎりぎりを狙い過ぎなんですよ」
そうですか?
悔しそうに貴方は濡れた髪をかきあげた。
貴方は何気に負けず嫌いの欲張りだ。
きっとあそこもここもとギリギリまで色んな場所を見ていたんだろう。
熱心と言えば熱心だけれど、もう少しならときっと何処かでたかをくくっていた
自分のあてが外れて内心悔しいに違いない。
雨に濡れてむっつりとした幸鷹さんは少し可愛いと思う。
着替えてくださいと言えば、念のために邸を見て回るのでと行ってしまった。
一応全部検非違使の皆さんが回って仕度を整えてくれたけれど、
幸鷹さんは念の為もう一度邸の中を見回って戻ってきた。
渡殿を袖を抑えながら歩く幸鷹さんに、ああこんなことがあったな、と思い出した。
脱いだ衣を受け取りながらくすくすと笑うわたしを、幸鷹さんは怪訝そうな顔で見る。
「濡れた私がそんなにおかしいですか?」
「いいえ。こんなことあったなあって思い出していたんです」
「ああ、貴方と初めてお会いした頃にそんなこともありましたね。
貴方はあの時もこんなふうに世話を焼いてくださった」
「雨に濡れて、風に吹かれていつもはきちんとした格好の幸鷹さんが、あんなよれよれになって、
一生懸命来てくれたんだなあって嬉しくて、頼もしかったんです」
「……貴方はあの時もこの風を恐れてはおられなかったのに?」
「怖いとか、怖くないとかそういうことじゃなかったんです。
でもあの時女房のみなさんも怖がって、何の仕度も出来ていないまま、
風がどんどん強くなって、わたしが何とかしなきゃと思いながら、
結局わたしには何も出来なかった。
そんな時、幸鷹さんが来てくれて心底ほっとしたんです。
……八葉の勤めとか関係なかったはずなのに、
気にかけてわざわざ立ち寄ってくれて嬉しかった」
「……あの時、六条に帰る途中にふと思い立ち寄っただけのですが」
「それでも嬉しかったんです」
着替えを済ませた幸鷹さんは隣に座った。
皺にならないように衣を広げ、ゆったりと畳めば、
ふわりと幸鷹さんの侍従の薫りが立ち上った。
「あの時嬉しくなった気持ちと、この薫りがずっと結びついて離れなくなった。
この薫りがあるとわたしは安心できたんです。大丈夫だって。
でも幸鷹さんにだんだん会えなくなって……だからこの薫りが欲しかった」
「貴方が好きだったのは私ですか、それともこの香ですか?」
「もう!」
幸鷹さんは拗ねてしまったのかこっちを向いてくれない。
「貴方がくれた香袋は確かにいい薫りでした。
でも、あの薫りがしなかった。
あの香袋を握り締めて首をかしげたわたしを翡翠さんが笑ってました。
その『袋』から、君の望む薫りはしたのかい?と。
薫りとは人が纏ってこそのもの。
君が持っているのはただの抜け殻だったのだろう?って」
「……翡翠にあの香袋を見せたのですか」
「……あの袋を持っていたら、翡翠さんや彰紋くん泉水さんには
すぐにわかってしまいましたよ?」
「それも、そうですが」
「翡翠さんは、まったく別当殿は心が狭いものだと笑ってました。
ここにいなくても神子殿は私のものだと主張しているって」
「!!!」
確かにそうなったらいいと気持ちを込めて貴方には贈りましたが、
あの頃はまだそんな関係では。
そうぶつぶつ呟いた幸鷹さんの耳は紅く染まっていて、
『中納言』、や『検非違使別当』の時には決して見せない顔をしていた。
こんな顔を他の人には絶対に見せたくない。
そんな気持ちで一杯になって、わたしはその耳にそっと口付けた。
「!」
その不意打ちに、幸鷹さんは驚いて、苦笑いして。
わたしを後ろから抱きかかえた。
首筋の匂いをかぐようにして、安心したようなため息を漏らす。
「また腕を上げられたようですね。
本当にいい薫りだ。とても貴方らしいあたたかな薫り」
「……だって幸鷹さん教えてくれないじゃないですか」
「夫婦と言えど、あの配合は秘密です。
……この子が生まれて来たら、この子には教えますが」
「……幸鷹さんのけち」
「秘伝とはそういうものですから仕方ありません。
それに貴方には貴方らしい薫りが似合うのだから、
私と同じもの出なくてもよいではありませんか。
たとえ貴方が私と同じ香を纏っても貴方の薫りになる。
同じものには成り得ないのですから」
そう。ひとりひとりが違うからこそ、愛おしいのだよ。
だから白菊、君は君らしい薫りを楽しんで纏いなさい。
翡翠さんはそう言って笑ってくれた。
彰紋くんもあの時、きっともっと薫りを似せることが出来たのかもしれない。
けれどわたしらしさを残そうとしてくれたからあの薫りになったのだと、
自分で香を合わせるようになってわかった。
わたしは貴方のあたたかいものでありたい。
優しさで包むことが出来たらいい。
そう願ってわたしは自分の香を焚く。
変わらずに傍にいてくれる幸鷹さんの存在を感じながら、貴方の衣に焚き染める。
その衣を幸鷹さんが纏えば、わたしの好きな薫りになる。
いつまでもその薫りに包まれていたい。
わざわざ秘密ですから、とわたしを遠ざけてからこっそり香を合わせる幸鷹さんを
愛おしくも可愛いとも思う。
いつまでもそんな日が続きますように。
まわされた腕をきゅっと握れば、幸鷹さんはそっと腕に力をこめた。