香合せ




 −3−


 台風は明け方が来る前には京を離れたようで、雲のない空には星が瞬いていた。
 幸鷹さんは一睡もしなかったのに眠そうな顔一つせず、わたしが不器用に火熨斗を当てた衣を
 ありがとう微笑んでと袖を通し、いつものようにきちんと背筋を伸ばし出仕して行った。
 それを見送った後、台風一過の青空を見上げ褥にもぐりこんだ。
 不意によぎったのはお母さんが使っていたリネンウォーターの香り。
 お母さんは歌を口ずさみながら、アイロンをかけていた。
 考えないようにしていたのに。
 不意に漏れた嗚咽を必死にかみ殺す。
 近くで寝ている紫姫に気付かれたらきっとまた心配をかける。
 顔の上まで上掛けを引き上げたら、近くで人の起き出す気配がした。
 目が赤くなっていたらそれは徹夜のせいだと言い張ればいい。
 目を閉じれば、すぐに眠気が降りてきた。



 火熨斗をあてたあの衣から立ち上った水蒸気からは、貴方の香の薫りがした。
 その薫りはわたしの中にずっと残った。
 貴方はそれが『侍従』の香なのだと教えてくれた。
 具現化して手に入れた香の中に侍従の香はあったのだけど、
 記憶の香りよりも少し甘くてそれが少し残念だった。
 あの日貴方の湿っていた衣に火熨斗をあてて立ち上った薫りが離れてくれない。
 慣れない火熨斗をうまくあてることが出来なかったけれど、
 行って参りますと幸鷹さんは微笑んでくれた。
 八葉の皆が揃って勿論嬉しかったけれど、幸鷹さんが少し特別なのは仕方ないと思う。
 神子殿って誰よりも先に呼んで認めてくれて嬉しかった。
 でも、八葉が揃った頃くらいから、幸鷹さんのお仕事が忙しくなって毎日は会えなくなってしまった。
 八葉の皆が頼もしくないわけじゃない。皆とだんだん仲良くなれて嬉しいと思う。
 でも、幸鷹さんの姿が見えないと少しがっかりしてしまった。
 もっと来て欲しいなんてとても口に出せない。
 そんな気持ちに気付いて、余計に何も言えなくなってしまった。
 石原の里に二人で出かけてから、わたしに触れると幸鷹さんに痛みが走るようになった。
 あの後も怨霊を鎮める時に、たまに庇ってくれた幸鷹さんに痛みが走っているのか、
 堪えるような顔をするときがあったけれど、幸鷹さんは笑って何も言わなかった。
 石原の里に現れた泰継さんは、わたしが触れると幸鷹さんの気が乱れて痛みが走ると言った。
 触れてはならないと、言った。
 何故そうなるのかと言うことには答えられないと、頑なに口を閉ざしている。
 別にそれまでだってそんなにふれあったりなんてしてこなかったのに、
 触れてはいけないと言われると、寂しくなるのはどうしてなんだろう。 

 あの薫りが、もし傍にあったらいいかもしれない。

 何がいいのかわからないけれど、そんな気がした。
 でもなんとなく幸鷹さんに香を下さい、とは言えなかった。
 何だろう。このもやもやした気持ちは。
 でもそれはまだはっきりとさせてはいけないような気がして考えないようにしていた。
 そんな時物忌みの日に、彰紋くんが来てくれることになった。
 彰紋くんは香を合わせるのが得意で、いつも素敵菜を薫りを身に纏っている。
 いつものように来てくれたことにお礼を言えば、彰紋くんは笑って

「よいのですよ。
 これがぼくの役目ですし。
 今日は何をして過ごしましょうか。日頃の疲れを少しは癒せるとよいのですが」
「彰紋くんは香を合わせるのが上手だよね。今日の香も凄くいい薫り。
 あの翡翠さんもすっごく褒めてたもんね」
「上手かどうかはわかりませんが。香をあわせるのは好きです。
 翡翠殿のような風流を解する方に褒めてもらえて嬉しいです」
「わたしも彰紋くんの薫りは好き」
「そうですか。
 貴方が香に興味を持ってくださってなんだかぼくも嬉しいです」
「今までこんな風に薫りを身に着けたことはなかったけど。
 なんだか素敵だよね」
「自分を表現する薫りを上手く纏える人はとても素敵だとぼくも思います。
 貴方が身につけている薫りもとてもいい薫りですよ」
「うん……」

 俯いたわたしに彰紋くんは気遣うように声をかけてくれる。

「どうかなさったのですか?」
「香を合わせてみたいんだけど、だめかな?」
「それはかまいませんが。
 素敵な薫りをもうお持ちなのに、どうしてですか?」
「やっぱり急には無理だよね」
「……無理ということはありませんけど。
 香木などの準備もありますから。
 理由をお聞かせ下さいませんか?そして何の香を合わせたいのです?」
「侍従の香なんだけど」
「……今纏っておられるのも侍従香ですよね?
 何かお気に召さないのでしょうか」
「これはこれでいいんだけど、あのね……。
 この薫りは少し甘いでしょう?だからもう少し爽やかなのがいいかなって」
「……侍従香といえば、ぼくよりも幸鷹殿に教えて頂いた方がよろしいのでは?」
「幸鷹さんはだめ……その、忙しそうだし」

 失礼だとは思うけれど、完全に顔を背けたわたしは耳まで赤かったかもしれない。

「神子殿は幸鷹殿の香が欲しいのですか?」
「……うん」

 頷いたわたしを見て少し考え込んだ後、彰紋くんはいたずらっぽく微笑んで、

「幸鷹殿の香はあちらの家の秘伝のもので、配合があまり知られていません。
 ぼくも良い香りだなと思っていたので、……いい機会です。
 あの香に挑戦してみましょうか」
「できるの?」
「あくまでも似たものしか出来ませんが、近づけることは出来ると思います。
 準備させるので少しお待ちいただいても宜しいですか?」

 彰紋くんはさらさらと書き付けをしてそれをついて来た東宮職の侍従のひとりに渡す。

「手元にあるもので出来ればいいんですが」
「えっと」
「……ぼくの御所から、今必要なものを持ってきてもらうことにしました。
 まだ日は高いですから、大丈夫ですよ」
「えっ、なんだか悪いです」
「貴方がいつも頑張っていらっしゃるのにたいして何も出来てはいませんから。
 ぼくにできる事があるのなら、してさしあげたいんです。
 ご迷惑でしたでしょうか」
「そんなことないよ……もともとはわたしのわがままだし」
「わがままだなんて。
 いつも元気に外で駆け回る貴方が、物忌みの今日は外に出られない。
 少しでも気晴らしになればいいんです」
「そうかな」
「ええ。
 それに今日貴方がぼくをここへ呼んでくださったことがとても嬉しかった。
 貴方と出会って嬉しいことばかりです」
「……そうなんですか?」

 にっこりと笑った彰紋くんはふっと視線を外へと向けた。

「ぼくは東宮です。
 こんな風に特定の女人のもとへ通うことなど本来ならば出来ないことです。
 そして、外を出歩くことも。
 貴方と出会えてこんな風に外へ出られるようになったこと。
 貴方と一緒だから民の暮らしを垣間見えたこと。
 これがぼくにとってどれだけ大きなことなのか、貴方にはわからないかもしれない。
 でもこのひとときはきっと忘れえないものになる。
 だから貴方とひとつでも多い思い出をつくりたいのです。
 ぼくの、天女」
「天女だなんて」
「……龍神の神子は光と共に天より舞い降りるものだとききました。
 そうでなかったとしても。
 貴方がぼくに与えてくれたものはとても大きいんです。
 そしてぼくが京を救いたいと心から望んでいることを叶えてくれるかもしれない。
 だから貴方はぼくにとっては天女なんです」
「でも」
「貴方は天女と言われることは嫌ですか?」
「いやっていうか……何だか恥ずかしいです。
 わたしはそんなたいそうなものじゃないですから」
「貴方には貴方自身の輝きは見えないから。
 貴方は日に日に輝きを増していく。
 そんな貴方なのに、こうして優しいからぼくたちは貴方をお守りしたいって思うんですよ。
 …………変なことを言ってしまいましたね。
 届くまで何も出来ませんから少しのんびりしていましょうか」

 彰紋くんは廂に出ると、侍従にあれをと声をかけた。
 その塗の小箱には綺麗に細工された菓子が並んでいる。
 これでも食べながら、頼んだものを待ちましょうと彰紋くんは笑う。
 ここでは甘いものは貴重だ。
 わたしはそろりと指を伸ばし、菓子を口に入れた。
 甘い。
 その一口で最近の疲れが吹き飛んだ気がした。
 おいしい!と言えば彰紋くんは嬉しそうに笑った。

「お香って作るのに時間がかかるものなの?」
「薫りを確認しながら、粉末にした香料と煤を混ぜ合わせ甘蔓でまとめ、丸く練ります」
「ふーん。何だか楽しそう」
「ええ、楽しいですよ。
 でも、まとめた香を壺に入れ、しばらく寝かせるのに多少時間がかかるんです。
 今の時期なら……そうですね五日くらいでしょうね。
 熟成が進めば出来上がりです」
「そんなに時間がかかるんだ」
「はい。
 でも出来あがりを心待ちにするのも香の楽しみのひとつだとぼくは思っています。
 ……上手くできるといいですね」
「うん!」

 五日後には幸鷹さんに会えるだろうか。
 会えた時その新しい薫りに気付いてくれるといいな。
 うまく香を合わせる事ができますように。
 そう願いながら菓子をもうひとつ摘んで口に入れた。

 出来上がった侍従の香は、彰紋くんが調合を手伝ってくれたお陰で
 とてもいい出来になった。
 けれど、やっぱり幸鷹さんのものとは少し違う。
 手に入れたお香よりも少し爽やかで幸鷹さんのものに近くなった。
 何が違うんだろう。
 彰紋くんは、お力になれずすみませんと謝った。
 でも香を合わせるのはとても楽しかったし、新しいお香は彰紋くんらしく
 とても上品な薫りがしてそれはそれでとてもいい薫りだった。
 新しい香を焚き染めるといつもの衣なのにしゃんと背が伸びるような気がする。
 同じ服なのにそんな自分が何だかおかしかった。


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