香合せ
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鉛色の雲が、かなりの速さで空を流れていく。
夜が明けている筈なのに、厚い雲に覆われてそれを感じさせない。
深苑殿がしきりに繰り返す龍脈の乱れという言葉が頭をよぎった。
これもその影響を受けてのことなのだろうか。
そんな風に考える自分に少しおかしくなり苦笑いした。
真面目に信じてもいないのに、そんな言葉が頭に浮かぶなんて。
「この風は……今夜は嵐になりそうですね」
少しずつ風の勢いが増していく中参内すれば、
案の定色々な理由をつけて参議たちは参内を取りやめていた。
「……この雲行きでは夜半にまた強い嵐が来るかもしれません。
準備は怠らないように」
そう声をかけて、検非違使たちに見回りをさせる。
少し前に嵐をやり過ごした後で、皆備えに慣れてはかどっている。
一応内裏の準備が終わり次第、泉殿も見ておかないと。
……朝参が終わった後に、花梨殿のところへ向かおうと思っていたけれど、
この天気では散策は無理だろう。
とりあえず八葉を探すようにと言われ、
精力的に行ける場所を回ってみても、確率は今は半々と言ったところ。
努力の割りに実りも少なく、力不足を深苑殿に罵倒されるのは哀れだった。
けれどそれが今の現実だ。彼女はそう受け止めて前向きに進もうとしている。
……自分が八葉と言われ、首筋に宝玉が埋まった今もまるで現実感が無い。
こうして首に手を当てれば確かに触れる硬質な何か。
けれど他の人に見えているわけでも無いらしい。
知らない場所に連れて来られ、慣れない暮らしを強いられ、
それでも頑張ろうとする彼女には共感できる何かがあった。
自分が八葉だと信じられなくとも、彼女に協力してやりたい。
帰りたいといった彼女を元の場所へ帰してやる手伝いをすることは自分の主義には反しないことだった。
もう既に院の元に龍神の神子はおり、立場上彼女の存在を認めることは出来なくとも。
彼女の努力を認めない自分ではありたくなかった。
内裏の準備が進んだところでいつも伺う刻限が近づく。
今日はお伺いするのは止しておきますとしたためて、四条の館へと遣いを送り、
泉殿へ牛車を向けた。
……馬のほうが良かったのかもしれない。
風に煽られる牛車の進みの遅さに舌打ちしたくなるような気持ちで泉殿につけば、
こちらでは前と同じように武士団が備えを固めていた。
院のもとに伺候し、備えが順調であるとの報告を済ませて泉殿を辞した。
……もう暮れているであろう時間なのに、鉛色の空の色は変わらず、
風はますます強くなりとうとう大粒の雨が降り出した。
間に合わなかったか。
車を六条に向けようとしてふと思い当たった。
……四条の館の主は尼君。あちらには男君は不在だった。
家司はいるであろうけれど、男君のいない館の家司はまともに動かないことも多い。
あちらは大丈夫だろうか。
すでに四条を通り過ぎていたけれど、車を四条の館に向けさせた。
先触れを出せば、驚いた様子で迎え入れられた。
案の定たいした準備が出来ていない。
蔀戸は閉じられてもいず、御簾は強い風に翻るばかり。
とりあえず連れて来たものに蔀戸を閉じて回るように命じ、
尼君の御前に挨拶に行けばおろおろと風に怯える女房たちが右往左往していた。
風に煽られるばかりの御簾を巻き上げるか、結び付けるかどちらかにするように命じ、
屏風を畳んで塗籠に仕舞うようにと命じれば初めて思い当たったように女房たちは動き出した。
煽られて倒れるだけの几帳も予めもう倒してまわる。
「これは、幸鷹殿」
「尼君。先触れもなく、御簾もなく、いきなり失礼いたします。
こちらが気になったものですから」
「来て頂いて心強いですわ。
この時期の嵐など物珍しく、皆慌てるばかりで心細かったものですから。
やはり男君がいるとちがいますね」
「そう言っていただければ幸いです。
もうこちらの仕度は終わります。もし心許ないなら塗籠へご避難を」
「そうさせていただきます」
尼君が女房に支えられ、塗籠へ行くのを見送り、端近へ出れば、
こちらの寝殿ともうひとつの対の屋の戸を下ろし終わったと報告に来た。
花梨殿のいる対の屋へ向かう。
雨風はどんどん強くなり、もう帰れそうに無い。
風に翻る袖をなんとか押さえながら渡殿を歩く。
彼女はどうしているのだろうか。
怯えているのだろうか。
見れば花梨殿は風に煽られる蔀戸をなんとか閉めようと懸命に腕を伸ばしていた。
一生懸命なその様子に一瞬見とれ、声をかければ花梨殿は驚いたように目を見開いた。
「お下がりください、花梨殿」
「えっ、幸鷹さん、どうして?」
手を添えて蔀戸を下ろす。
この風の強さではやはり女人の力では戸を下ろすことも難しい。
付き人と共に戸を下ろして回り終わる頃にはずぶ濡れになっていた。
恐れているかと思えば、花梨殿は存外楽しそうに格子の隙間から外の様子を眺めている。
その後ろで風に怯えて泣く紫姫と、それを必死で宥める深苑殿がいて
その対比がなんだかおかしかった。
「花梨殿。もう大丈夫かと」
「ありがとうございます。
でも、どうして?
今日は来れないってさっき文をくれましたよね?」
「こちらが気になったので寄らせていただいたのですが。
もう、これでは帰れませんね。
今日はこちらで宿直させていただいても宜しいですか?」
「こんな状態で帰れなんて言えませんし、いてもらえれば心強いです」
「私如きでよろしければ」
「って、幸鷹さんびしょ濡れじゃないですか!」
濡れて額に張り付いた前髪をかき上げれば、花梨殿はくすりと笑った。
「こんな格好で申し訳ありません」
「そんな!
でも、いつも幸鷹さんってきちんとしているから。
何だかちょっと新鮮ですね」
「そうですか?」
「一生懸命来てくれたんだなあって何だか嬉しいです」
何言ってるんでしょうね。
そう笑って照れた花梨殿は鼻の頭を赤くして笑う。
とりあえず濡れた着物は脱がないと!と脱がせようとして脱がせ方がわからず
悪戦苦闘する花梨殿に気恥ずかしくなり、
……こちらはいいので何か羽織るものいただけますかと言えば、
男君の衣が無く勿論……深苑殿の衣では小さいので花梨殿の小袿を借りて羽織ることにした。
風に煽られると火鉢の灰が飛ぶので、囲うようにして座る。
女房にまかせずに甲斐甲斐しく世話を焼こうとしてくれる花梨殿の暖かさが沁みた。
こんな風に心を込めて労わってもらうのはいつ振りだろう。
父上がまだ存命だった頃、母上にこんな風に世話を焼いて貰っていたことを思い出した。
別に母親を求めているわけでは無い。
けれど花梨殿の優しさは心地よく体中を染み渡り広がっていく。
家庭を持ちたいと思ったことは無かったけれど、いいものなのかもしれない。
そんな風に考えていた自分は、その時熱でもあったのかもしれない。
「むしろご迷惑だったのではないでしょうか。
こちらこそ雨宿りに来たようになってしまって」
「この台風の中帰れなんて言えませんよ」
「たいふう、ですか」
「ええ」
「花梨殿のいた場所ではこの嵐をたいふう、と呼ぶのですね。
……たいふう、大きな風と書くのでしょうか」
「いいえ?物を載せる台に風、と書きます。
どうしてかはわからないんですけど」
「成程、台風、ですか」
そう呟いた私が余程楽しそうに見えたのか、
「幸鷹さんは何にでも興味があるんですね」
「……そうでしょうか。
そうですね、知らないことを知ることを私は楽しいと感じますので」
「勉強熱心なんですね」
「私自身はそれを学問だとは思ってはいないのですが」
「勉強以外のことならわたしも知ったりするのは面白いかも」
「……学問、学問以外で線引きをするのは勿体無いですよ?」
「わかってますけど、難しくて」
ぺろりと舌を出した花梨殿をみっともないと深苑殿が諌め、
二人で顔を見合わせて笑った。
この嵐の中一緒にいることが気安さを生むのだろうか。自分のその態度に内心驚く。
夜が更けて、注意深くともされた灯火のもとで語り合ううちに、
いつになく寛ぐ私自身に気付き驚いた。
ここ暫くは自分の部屋でもこれほど寛いだ気持ちにはならなかったのに。
強い雨と風の音に怯える紫姫に、花梨殿は明日になったらきっと晴れるから大丈夫だよ、
と髪を撫でるようにしてあやしていた。
疲れたのか、いつしか眠ってしまった紫姫とそれに寄り添うように眠った深苑殿に、
花梨殿は小袿をかけた。
「眠ってしまいましたね」
「そうですね」
普段は大人びた二人が年齢相応の幼さで眠っている様はどこか心穏やかになるものだった。
「幸鷹さんも寝ますか?」
「……この風では眠れませんね。何かあってはいけませんし、
宿直とは寝てしまっては意味がありませんから。
花梨殿こそ眠かったら寝てください」
「幸鷹さんが起きているのに、寝てしまったら悪いです」
「そうですか?」
「……それに、幸鷹さんは明日のほうがお仕事が忙しいから、
きっとこちらには来れないでしょう?
深苑くんに起こられるかもしれないけど、明日お昼寝でもします。
だから、大丈夫です」
本当は眠いかもしれないのに花梨殿は気丈に笑ってみせる。
ああ、貴方はそうやっていつも懸命に頑張っている。
そんな貴方だからこそ私は、手助けをしたいと思うのです。
気が着けばどこかで貴方のことを気にかけている。
仕事の合間や、移動の時に。
次はどちらへお連れしよう、とか。
深苑殿に辛く当たられていなければいいが、とか。
家族以外でそんな風に気にかける人間に出会ったことはなかった気がする。
出会ってそれ程時が経ってもいないのに、彼女が心のうちに占める割合が
次第に大きくなっているのは自覚していた。
たとえ龍神の神子と認めることはできなくとも、彼女を支えてやりたいとは思う。
それが建前や良心などではなく、心の底からそう願っていたことに、
その頃の私は気付いてはいなかった。