香合せ
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西の札を取りにいかなくちゃいけないということで、
幸鷹さんに会える時間が増えて嬉しいのだけれど、翡翠さんとの仲がしっくりこなくて
どこかいつも不機嫌でそれが残念だった。
あの温和な幸鷹さんが、翡翠さんにだけは苛立ちを隠さない。
珍しいものを見ているとわかっているけれど、やっぱり笑った顔が見たい。
決してお互いは本当には嫌いあっていないのに、お互いがお互いにないものを
もっているせいなのか、考え方のせいなのかよく言い争いになる。
わたしみたいな小娘が仲裁に入っていいのかな、なんて迷っている場合じゃない。
ちゃんと仲裁出来ないと神子失格のような気がする。
ハッキリとものを言うわたしが翡翠さんには面白いらしく、
本当にこの人は年上なんだろうか、と思うことはしばしばだ。
幸鷹さんを怒らせて、わたしがおろおろするのを見たいから、
あんな風な態度をとるんじゃないかと思うくらいだった。
明王様の試練で、神泉苑に行くようにと言われ、
そこで出逢った男の子と幸鷹さんが碁を打っている。
幸鷹さんは楽しそうに、子供相手なのに手を抜かずに真剣に碁を打つ姿を見ていた。
幸鷹さんの綺麗な手には、鍛錬の証拠か、仕事のし過ぎかたこだってあるのに、
ものを扱う時の丁寧な手つきが綺麗でいつも見とれてしまう。
決してゆっくりとはしていない、むしろきびきびとした所作なのに、
どうしてそんなに丁寧なんだろう。
そそっかしいわたしも見習いたいと思う。自分で上手くできないから憧れるんだろうか。
パチリ、パチリと音をたてて白と黒の碁石が盤を埋めていく。
打つ二人が迷いが無いせいか一定のリズムで打たれる心地いいその音に一瞬眠気に襲われた。
そんなわたしを見て翡翠さんはにやりと笑った。
たいくつだねえとあくびをした翡翠さんに、
あんな風に真剣に翡翠さんも頑張って下さいとうっかり言ってしまったら、
翡翠さんは幸鷹さんが力の抜き方もわからない子供だと呟いた。
幸鷹さんの方がずっと大人らしいですと言えば、翡翠さんはそうかなと笑う。
「幸鷹さんは、立派に八葉として勤めてくれてますよ」
「そうだねえ。でも私も私なりにきちんと勤めは果たしていると思うのだが。
……態度のことを言っているのなら、申し訳ないのだが私は白菊の期待に沿えることは無いよ」
「翡翠さん!」
「……誰もが同じ姿勢、同じ考えでいれば八葉は八人いなくとも良いのだとは思わないか?
少なくとも別当殿には見えていないものが私には見えていると思っていて欲しいね」
「そうなんですか?」
「……例えば。
今日君が纏っている香りが以前とは違うものだ、とかね」
「わかってたんですか?」
「わからないはずはないよ。これを合わせたのは東宮様かな」
「……!!
そうです」
「君らしくも無い上品な香りだね。
わたしと見つけたあの侍従香がお気に召さなかったのかな。
あちらの方がずっと君に似合っていたのに」
「……そうですか」
しょんぼりしたわたしに翡翠さんは意地悪そうに笑った。
「別当殿の真似をしているようで気分が悪いね。
まるで別当殿の移り香が残っているようだ」
「翡翠さん!!」
顔を真っ赤にしたわたしに、翡翠さんは違ったかな?という風に笑い、
わたしは恥ずかしくて答えることも出来ずに俯いた。
碁の勝負がついたのか、幸鷹さんが額に手を当てている。
もしかして、幸鷹さんがあんな年下の男の子に負けたんだろうか。
翡翠さんは碁盤を覗き込み、唸った。
「碁の名手で鳴らした君が負けるなんて珍しいね、別当殿」
「いえ……、私はそれほどでもありませんよ。
しかし、本当に強いな、君は」
えへへと笑う男の子を幸鷹さんは素直に褒め、負けを認めた。
そんな幸鷹さんを翡翠さんが感心して認めると、
明王様の声が聞こえてそれで試練は無事に終わったみたいだった。
「確かに別当殿を少し理解できた、というのは良いことなんだろうが、
……少し面白くは無いね」
「翡翠さんってば」
「冗談だよ」
「……無事に試練を終えられたようでよかったですね、神子殿」
にっこりと笑った幸鷹さんはいつもよりも少しよそよそしい。
今日迎えに来てくれた時から少し様子がおかしかったような気がする。
目を合わせてくれないような気がするのは多分気のせいじゃない。
日が傾きかけて徐々に風が冷たくなってきた。
「そろそろお帰りにならないと、体が冷えてしまう」
「ああ、すっかり手が冷たくなってしまって。神子殿私が暖めて差し上げよう」
「遠慮しときます!翡翠さん!!」
ふざけてわたしの手をとった翡翠さんを、じっと見ると幸鷹さんは先に行ってしまった。
「……つまらない」
「わたしで遊ばないで下さい」
「少しぐらいの意地悪は許されると思うのだがね。
まったく頭は悪くないのに、大事なものが見えていないのは相変わらずだ」
「……翡翠さん?」
「独り言だよ。
さあ、別当殿の姿が遠くなってしまった。我等もいこうか」
あわてて追いかけても、幸鷹さんは言葉少なで、
何かを言いかけても口には出してくれないままその日は別れた。
翡翠さんの試練も終えて、西の札を取りに行く日まで幸鷹さんは
仕事が忙しいという理由で四条の館まで来てくれなくなってしまった。
何がいけなかったのか、わたしにはわからない。
翡翠さんは意地悪そうに笑ったまま何も教えてくれなくて、
ため息をつくわたしに、自分で考えたまえと苦笑いするばかりだった。
西の札をとりに行く日、久々に会えた幸鷹さんは仕事が忙しいのか元気がなかった。
久しぶりに会えて嬉しいのにどこか気まずい空気にこっそりため息をついた。
神護寺に向かう最中に、幸鷹さんは何度か何かを言おうとして止める度に、
翡翠さんは面白そうにくっくっと笑う。
神護寺に現れたシリンに幸鷹さんが真摯に語りかける。
シリンが本当にアクラムのことを想っていることが伝わってきて、
何だか近く感じられたのはどうしてなんだろう。
好きな人の為に、やり方はどうであれ全力で頑張るシリンが救われて欲しかった。
そんな気持ちを黒龍に利用されていたのがやるせなかった。
ずっと理解できないと思っていたシリンをあれで少しは救えたんだろうか。
闘いたくない。こんなに強く思ったのは初めてだったかもしれない。
無事に札を手にして、四条の館に帰る途中ずっと考え続けていた。
わたしだったらどうしたんだろう。
好きな人の為に、わたしだったらどうするんだろう。
あんな風に命を賭けられるんだろうか。
考え込んでいるうちに、いつの間にか四条の館に着いていた。
私は疲れたから帰るよ、そう翡翠さんは帰っていき、
なんとなく庭をぼんやり見ていたら、紫姫と話していた筈の幸鷹さんが声をかけてきた。
「神子殿、……少しよろしいでしょうか」
「あっ、はい」
神子殿。
幸鷹さんにそう呼ばれるのが好きだったのに、今は何だか遠く感じる。
幸鷹さんは少し距離を置いて座った。
「……どうしたんですか?」
「いえ、その……神子殿。
私はそういうことに疎いもので、はっきりとはわからないのですが、
いつからか香を変えられましたか?」
「……気付いていたんですか?」
「……暫く前からだったとはわかっていたのですが、
侍従の香のようですし、少し自信がなかったのです。
私は翡翠殿や彰紋様のようにそういったことに敏くはありませんので」
俯いた幸鷹さんの顔が赤いのは夕日のせいだろうか。
「その香を合わせたのは彰紋様だとお伺いして、……その」
「……はい。彰紋くんにお願いしたんです」
「どうしてですか」
「……答えないとダメですか」
「彰紋様が合わせた香を、神子殿がお使いになっているのは、
どういう意味なのだろうかと思いまして……」
他の人が合わせた香を身に纏うという意味をわたしは初めて考えた。
もしかしてそれは贈られた好意を受け取るという意味にもなるんだろうか。
京の習慣に疎くてあまり考えたことのなかったわたしは、何も考えずに香を使ってきた。
幸鷹さんが好きだと言っていた侍従香を、少し大人っぽい香りだと思いながらも、
選び続けてきた。
そうやってわたしは幸鷹さんのことが好きだと周囲に洩らし続けていたんだろうか。
自分自身でまだ自覚もしていなかったのに?
そう気付いた瞬間恥ずかしさで顔が真っ赤になって顔を上げられなくなった。
心拍数が上がって上手く口から言葉が出てこない。
多分幸鷹さんは誤解してる。
でもその誤解を解くことは幸鷹さんに好きだと言うことと同じことだ。
「その薫りもとても良い薫りですが、
私は前の薫りの方があたたかくて、優しくてまるで貴方自身のようで
とても好きだったので残念に思っていたのです」
「……わたしらしい?」
「ええ」
わたしらしい薫り。
そんなこと考えたことがなかった。
……わたしみたいで……好き?
俯いていた顔を挙げ、幸鷹さんを見つめれば、幸鷹さんは少し寂しそうに笑った。
「彰紋様のご好意を神子殿はお受けになられたのですか?」
「違います」
「では、どうして……?」
なんて答えたらいいんだろう。
素直に幸鷹さんのお香が欲しかったと言ってしまっていいんだろうか。
そんな勇気はない。
でも幸鷹さんには誤解して欲しくなくて、決死の覚悟で口を開いた。
「……わたしはもう少しさわやかな薫りの侍従香が欲しくて、
物忌みの日に来てくれた彰紋くんに手伝って貰って一緒に作ったんです。
彰紋くんから貰ったわけじゃないんです」
「そうなんですか」
「香を作ることに興味を持ってくれて嬉しいからって、彰紋くんが……」
「……もう、良いのですよ」
「わたしは幸鷹さんのお香をお守りに欲しかっただけなんです」
勢いでつい口に出してしまったことは、もう無かったことに出来ない。
わたしは幸鷹さんの顔を見ることが出来ずに俯いた。
「お守り、ですか?」
「……はい」
「そうですか。
私の香を差し上げれば良いのですね」
「えっ、いいんですか?」
「……かまいませんよ。
それで貴方に元の香を使っていただけるのなら今度お会いする時にでも」
「……えっ」
「今日はこれで失礼します」
顔を上げた時には、幸鷹さんは立ち上がって背を向けていたので
幸鷹さんの顔は見えなかった。
でも渡殿を行く幸鷹さんの歩く早さはいつもより心もち早い気がした。
検非違使別当と中納言を兼帯する忙しい幸鷹さんに次に会えたのは、
京に張り巡らされた結界を破りに長岡天満宮へ向かう日だった。
元の侍従香に戻してみると確かにこっちの方が気持ちにしっくりくる気がする。
気付いたのか幸鷹さんは照れたように笑ってくれた。
なんとか御霊を倒して、結界がほどけた瞬間、雪が舞い降りてきた。
長かった秋が終わり、留められていた時が流れ出したんだ。
……こうして頑張った事が目に見えると嬉しい。
イサトくんと雪の下を駆け回ると、転びますよ、と幸鷹さんに窘められる。
でも心が浮き立つのは止められなかった。
無事に四条の館について、イサトくんが帰っていった後、
幸鷹さんはおもむろに何かを取り出した。
「……今日は良く頑張りましたね」
「幸鷹さんこそ、ありがとうございます」
「先日お約束したものをお持ちしました」
それは巾着袋だった。
「これ……」
「中には私の香が入っています。
香は焚き染めるだけでなく、こうして袋に入れて香袋として使うこともあるのです」
「……いいんですか?」
「勿論です」
手のひらにすっぽりと収まるそれは幸鷹さんの好きな淡萌黄色。
「貴方の好きな色を知っていればその色を選んだのですが申し訳ありません」
「いいんです」
「女房に頼んだら、私の……その、衣の切れ端で作ったので
気恥ずかしい限りなのですが、お守りになれば幸いです。
今の私は貴方に触れることも出来ませんが、その薫りが私の代わりに
貴方を守ってくれると信じています。
……私が貴方の供に立てる日はこの先そう多くはないでしょうから」
これからは北と東の札を取りにいくことになる。
そうなると確かに幸鷹さんと出かけられる日はそんなに多くはならない。
でもこのお守りがあればきっと心強いだろう。
「……大事にします」
そっと握り締めれば、幸鷹さんは嬉しそうに笑ってくれた。