香合せ




 −1−


 生温い風が首筋を抜けて、その湿度の不快さに顔を顰めた。
 ただでさえ暑い京の夏。扇いでみても湿気からは逃げられない。
 絡みくように徐々に不快さが増していく。
 京を覆う雲はまだそれ程光を遮るには至らず、まだそれほどの厚みを帯びてはいない。
 けれどかなりの速度で流れていく雲がまもなく次第に厚みを増して暗くなっていくことは
 容易に想像がついた。

「野分、か」

 夏の名残が野分の風に薙ぎ払われ終わっていく。秋が来るのか。
 簾が進む振動とはまた別に風に持ち上げられては揺れ、
 入り込む生温い風にじわりと不快な汗をかき、少し襟を開けた。
   治安を守るのが検非違使の職掌であり、これは範囲外と言われるかもしれないが、
 ほんのほころびが人の悪意を生み、犯罪の芽になるのならそれを少しでも摘み取ってしまいたかった。
 被害が出てからでは全てが遅い。
 けれど何かが起きてからでなくては我々は動くことは出来ない。
 常に手遅れとも言える状態から我々の職務は始まる。
 けれど事態を収めることが出来るのならば無駄ではない、と思う。
 そう思わなくてはやっていられない。近頃とみに治安が悪くなっている気がする。
 上げられてくる書簡も増え、気分は重くなるばかり。
 治天の君であらせられる院と帝の諍いに始まり、それをとりまく我等が貴族、
 そしてこの京に住まう民が徐々に二つに割れている気がする。
 そして心なしか空気が澱み、息苦しいのは気のせいではない。
 院の元にいつからかおわす龍神の神子。
 この京の安寧を願う祈りを捧げ続けているらしいが、その効果は如何ほどなのだろうか。
 それを口に出すことははばかられたけれど、正直信じがたかった。
 この野分の強い風が全てを吹き飛ばし、秋らしい青空をもたらしてくれないだろうか。
 私にはそちらのほうがまだ期待できるような気がした。
 夜が開け、次第に明るくなっていくのを見つめながら、朝堂の開門を待つ。
 きっと何やかやの言い訳をして出仕をしてこないものが多いだろうと予想はついていた。
 この天気では仕方ないだろう。
 早々に執務を片付け朝堂を出て、検非違使を召集させた。
 空はそれほどまだ暗くはないものの、風は確実に強まっている。
 雨風に備えるように号令を出し、主な建物を見回らせる。
 自分の目でも確かめなければと歩き回っていたら、東宮であらせられる彰紋様が通りかかった。

「別当殿、職務お疲れ様です」
「これは彰紋様。
 東宮御所は如何でしょうか。今夜には強い雨風が来ると予想されますが」
「舎人たちが頑張ってくれていますから大丈夫でしょう。
 ぼくも皆さんに声をかけてまわっています。心を強くもつように、と」
「素晴らしいお心がけだと思います」
「……ぼくに出来ることはこれくらいですから」

 はにかむようにして笑う彰紋様は、東宮としての務めを懸命に果たされている。
 色の薄い髪や、肌の色が『鬼』に似ていると疎まれていたりもするらしいけれど、
 東宮に相応しい品格を持たれた方だと思う。
 対立を深める院と帝の間に立たれて懸命に取り成そうとされていた。
 その物腰の柔らかさから侮られることも多いのかもしれないが、
 私は侮ることは出来ないと思っていた。
 他に回る場所がありますのでこれで、と彰紋様が戻って行かれるのを暫し見送っていると、
 そこをどけ、と声がががった。
 振り向けば、札を持った青年が立っている。
 ……陰陽寮の安倍泰継と言っただろうか。

「結界を張っている。邪魔だ。そこを早くどけ」

 失礼な、と一瞬思ったけれど安倍泰継にはそういう礼儀が一切通じないのだと
 誰かが言っていたことを思い出し、その場を動けば、彼は素早く印を切り、唱えた。
 悪意は感じられなかったので不思議と怒りは感じなかったのは、
 彼は彼のやるべきことを淡々としているだけなのだとわかったからか。
 泰継殿は振り向きもせず行ってしまった。
 ……私も早く内裏の見回りを済ませ、泉殿も見てまわらなければならないことを思い出し、
 検非違使佐に進捗を尋ねるために人を呼んだ。


 とりあえず内裏の点検を一通り終わり、泉殿に伺候した頃には昼を回っていた。
 院に目通りをし、見回りをすれば主要な箇所はほぼ終わっていた。
 お抱えの武士団が既に準備を進めていたらしい。
 その手際はなかなかのもので、こちらは大丈夫だろうと安堵する。
 良く通る声で的確に指示をし、率先して動く武士が見えた。
 あれは源頼忠と言っただろうか。
 常に控えめな態度で無駄がなく、実直な職務ぶりは前から目にとめていた。

「源頼忠、と言いましたね」
「……これは、検非違使別当殿」
「これから嵐が来るように思えますが、泉殿の備えは如何です?」
「今、点検をさせています。
 そろそろ全て終わるかと」
「そうですか。くれぐれも頼みます」
「は」

 短く応えると、頼忠はまだ指示が残っていますのでと頭を下げて辞した。
 手際に感心して歩いていると、泉のほとりで一心に笛を吹く公達が見えた。

「これは泉水殿」
「別当殿。見回りですか」
「相変わらず素晴らしい音色ですね」
「つたない笛を褒めて頂きありがとうございます。
 こちらに気の乱れがありましたので、少しでも静まればいいと吹いてみたのですが、
 煩かったでしょうか」
「……いいえ、そんなことはありませんよ。
 あまり風が強くなる前に、お帰りになった方がよろしいかと」
「お心遣いありがとうございます」

 素晴らしい笛の腕を持ちながら、いつも泉水殿は謙遜し過ぎのような気がする。
 内大臣殿のご子息でありながら、謙遜ばかりされ、出世も断られている。
 決して能のない方ではないのに勿体無いけれど、……あまりいい話をきかない。
 口さがの無いものたちの言うことに耳を傾けるつもりもないけれど、
 母御である女六条宮との関係はあまり良好であるとは言えないらしい。
 穏やかで、けれど少し儚げな背中を見送ると、泉殿には問題はないと報告が入った。


 京の大火の後、避難した民を受け入れ人の多い東寺に立ち寄れば、
 こちらは京職や僧たちを中心として準備がすすめられていた。
 元気に走り回るのは僧兵の見習いの少年だろうか。
 座り込む老人や子供に声をかけて回っている。

「おい、ここで何をしているんだ」

 降り向けば渋い顔をした青年が立っていた。

「あんた検非違使別当だろ。こんな場所にも口を出すのかよ」
「見たところ、貴方は京職ですか?
 別に口を出すわけではありませんよ。
 ここは人が集まる場所なので、様子を見たかっただけです」
「そうやって職掌を奪って、あんたは何がしたいんだ」
「……私はただ京の安寧を願っているだけですよ。
 別に京職の職掌を奪って形骸化したいわけではありません」
「あんたはそうかもしれないが」
「……貴方が不快に思ったのなら謝ります。
 備えが出来ているのならそれでいいのですよ」

 突っかかって来ようとする彼を、他の京職が止め、
 彼はそれを振り払うと人ごみに紛れて消えた。
 ……別に職掌を奪いたいわけではない。
 むしろお互いに協力できればより良いに違いないのに。
 そう考えていたとしても今の私にはどうすることも出来ない。
 私はひとつため息をついてその場を離れた。
 風はさらにつよくなり、検非違使たちを解散させ、私も邸に戻ることにした。
 更に暗い雲が空を覆い、とうとう雨が落ちてきた。

「……間にあわなかったか」

 次第に強くなる雨がこのもやもやを流してしまえばいいのに。
 車を降りて、雨に打たれれば何かが変わるのだろうか。

「そんなことをしても何も変わらないな」

 そう呟いてはためく簾を手で押さえ、滴る雫をぼんやりと眺める。
 この強い風が全ての災厄を吹き飛ばしてしまえばいいのに。
 強い風に煽られて軋む車の中でぼんやりと私は何かを待っていた。


 あの頃私たちは、まだ出会っていなかった。
 お互いに知ってはいてもまだ分かり合うことはなく、そんな日が来るなど夢にも思っていなかった。


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