SOMETHING OLD






 −1−

 誰も知らない。
 何が起きて、何が起きなかったのか。
 ただ言える事は今日も人々は笑い、泣き、生きている。
 それぞれに与えられた時をそれぞれのやり方で。
 また会えると思った人と会えるか会えないかなんて本当はわからない。
 会いたいと思ってももう二度と会えないかもしれない。
 本当は出会えたことをもっと感謝しなきゃいけないのに、
 当たり前のことだと過信してその貴重な時間を無為に使ってしまう。
 人との出会いは、何かをもたらす。
 かかわった誰かだけじゃない。
 その時に取り巻いていた空の色や、風の匂い、日差しのあたたかさ。
 触れ合ったぬくもり、交わした言葉、眼差し。
 自分が思っているよりも簡単に人の形は変わる。
 自分では何も変わっていないと思っていたのに、気付いた時には
 もう変わってしまっている。後戻りできないくらいに。
 変わることが怖くて、変わりたくないと身を堅くしても、人は変わらずにはいられない。
 変わることは生きることだから。



 目を覚ましたとき、何事もなかったようにわたしは飛行機のシートに座っていた。
 変わらない少しひんやりとして乾いた空気に、すこしざわついた機内の雰囲気。
 いつの間にかかけられていた毛布が暖かい。
 そのすべすべした手触りにほっとして、あらためてまわりを見回す。
 忙しく立ち回りながらも笑顔を絶やさないCA。
 ビジネスマンに、様々な国籍の旅行者たち。
 眠っている人もいれば、本を読む人、静かに話す老夫婦。
 ああ、戻ってきたんだなとシートに身を預ければ、変わらずに
 やわらかくしっかりとそれは受け止めてくれた。
 あれは夢だったのかもしれないと頭がぼんやりした今は思う。
 でも、手に触れるペンダントと胸に残る痛みが現実にあったことだと、
 わたしに思い知らせた。
 わたしはどうしたらよかったんだろう。
 ゆっくりと考えることも出来ないまま帰ってきてしまった。
 ご褒美という言葉と笑顔が過ぎる。
 隣の席の瞬兄の睫は記憶のとおりに長く、それを震わせて目蓋を開けた瞬兄は、
 暫くぼんやりした後、丁寧に深呼吸した。
 初めて呼吸をするように。
 まわりを見回し、そしてわたしを信じられないという目で見た。

「ゆき」

 すこし掠れた声に喉を押さえ、喉が乾燥でやられてしまったようです。
 とかすかに笑うと、CAに水を貰えるかと尋ねた。
 顔を覆う手が少し震えている。
 後ろに座っていた二人も目を覚ましたのか起きだす気配を感じた。

「……飛んでる」
「あたりまえでしょ。
 縁起でもないこと言わないでよ、都姉」

 寝起きでぼんやりとする都がそういったのがおかしかった。
 都は頭をふるふると振ると、座席の後ろからわたしを覗いた。

「ゆき、いた」
「うん」
「……終わったんだよな」
「……うん」

 今度こそ、終わった。終わってしまったんだ。
 最後の笑顔が過ぎる。
 急に機内の寒さを感じ、ブランケットをかけ直す。

「ゆき、寒いのか?」
「大丈夫、お姉ちゃん?」
「うん、平気だよ。祟くん」

 都が本当か?という風にわたしのおでこに手を当てる。

「ん、熱はないな。
 何だよ、瞬。ぼーっとして」
「……時差ぼけか何かで、少しぼうっとするだけだ」
「そっか。……そうだよな」

 着陸準備のベルト着用ランプが点る。
 身を乗り出していた都と祟くんも席に戻りベルトを締めた。
 何事も無かったように瞬兄はベルトを締めましたか?と聴くので、
 ベルトを見せればそれでいいんですといつものようにかすかに笑った。
 窓から見える眼下の景色は変わらない。
 瑞々しく緑が溢れ、山には雪が白く積もり、街が広がっている。
 あのどこまでも広がっていた砂の世界じゃない。
 本当に帰ってこれたのかな。
 まだ何だか実感が湧かなくて、心もとない。
 本当に帰って来れていますように。
 そう祈りながらわたしは振動するシートに身を委ねて目を閉じた。


 夏に帰省した時に感じるほど圧倒的なものではなかったけれど、
 冬でもやっぱり日本は湿度があると思う。
 乾燥していた機内から、笑顔で見送ってくれたCAさんたちに会釈して
 ドアをくぐると甘い空気と音に包まれた。
 やっぱり日本の空気は何処か優しい。
 人は人、他人は他人とくっきりと境界線が引かれたような海外とは違う。
 何処か輪郭が溶け合い、交じり合うような優しさに包まれて、
 ほっとして涙腺が緩みそうになる。
 立ち止まったわたしを三人は待っていてくれた。
 都と祟くんと手を繋いで、空港内を歩く。
 活気に溢れ、人が歩き回り、日本語以外の言葉も時折聴こえる。
 コーヒースタンドのコーヒーの匂い、流れる音楽。出発を告げるアナウンス。
 そしてざわめき。人が、街が生きている音に包まれる。
 すれ違う冬休みを利用して出国する人々の旅への期待に満ちた話し声に笑顔。
 見送る人と、再会を祝う人々。

「ゆき!」

 聴こえてきた懐かしい声にはっとなる。
 顔を上げればお父さんが笑顔で手を振って待っていてくれた。

「お父さん!」

 普段出さないような大声をだして、飛びついたわたしを
 お父さんは少し驚いたように見たけれど、おかえりと抱きしめてくれた。
 お父さんの匂いにまじって懐かしいおうちの匂いがする。
 ただいま、と言いたいのに声が出ない。
 そんなわたしを不思議そうに見たけれど、お父さんは黙って頭を撫でてくれた。
 祟くんは一瞬躊躇うように視線をさ迷わせると、勢いをつけてお父さんに抱きついた。

「お父さん、ただいま」

 抱きついた祟くんに少し驚くとお父さんは笑って、
 祟くんの頭をくしゃくしゃと撫でた。

「お帰り、祟」
「ただ今帰りました。父さん」
「ん、無事に帰ってきてくれたな、瞬。
 皆の面倒を見てくれてご苦労だったな」
「……いいえ。むしろ俺は助けられてばかりです」
「そうか?」
「おじさん、ただいま」
「都。
 ……またカッコよくなったな。
 それ以上格好良くなると放って置かれないだろう?」
「うん、またナンパされちゃった」

 都がさっきCAの女の人に貰った名刺をひらひらと見せると、
 お父さんは面白そうに笑った。

「まあ格好いいに越したことは無いんだろうがな。
 でも少し柔らかくなったかな」
「そう?
 おばさん待ってるんだろ、早く帰ろう」

 疲れてるんだろ?と都は気遣うようにわたしをちらり見て、
 お父さんに切り出した。
 お母さんは料理を用意して待っていてくれているらしい。
 寄り道せずまっすぐに帰って来いと言われたとお父さんは笑った。

 荷物とお土産をトランクに積み、乗り込むと車は走り出した。
 流れていく景色に涙が溢れそうになる。
 歩く人、すり抜けていく対向車、流れていく街が途切れない。
 砂に覆われてかつての面影を留めるだけだった街が生きていた。
 都がわたしの肩を抱いて、よかったねと囁いた。
 祟くんも窓から見える景色に見入っていた。
 クリスマスの飾り付けをされた街は祝祭の雰囲気に満ちていて、
 より幸せそうに見える。
 ……守れたなんて大それたことは思えない。実感も無い。
 ただここに帰ってこれたことが嬉しい。

「どうした皆黙って。
 いつもはもっとうるさいのに」
「皆ちょっと疲れてるし、久々に帰ってこれたことがすごく、うれしいの」
「そうか。
 都と祟がいるのに口喧嘩のひとつもないと何だか調子がでないんだがなあ」
「そんなに都姉と喧嘩なんかしてないって」
「嘘付け。
 ついさっきまでしてただろ、大・喧・嘩」
「都姉ってば」
「静かにしろ、都。祟」

 助手席で静かにしていた瞬兄がぼそりと注意すると、
 お父さんは嬉しそうに笑った。

背景素材:空に咲く花

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