風待草 −雪−




  −3−



 三味線の音がほろりほろりと心もとなく解けていく。
 それは行き場を無くした俺の魂のようだった。
 身が引き締まる緊張感のあった寒さが次第に緩み、ほのかに梅の香りが漂い始めた。
 ここまでは全うしたいと願った道程を駆け抜けた先にあったのは心地よい虚無。
 志を全うすることと、失うことは実は似ているのかもしれない。
 違うのはやりきったという充足感があることくらいか。
 志半ばで倒れた同志たちに、ただ走り抜けることを誓いここまで来た。
 折れることなく戦い抜けたのはゆきの支えがあってこそだろう。

「ゆき」

 梅の枝を見上げていたゆきが振り向いた。
 ゆきは俺が名を呼ぶと嬉しそうに微笑む。

「晋作さん」

 二人きりになるとゆきは俺を『晋作』と呼ぶ。
 その響きが好きで、他の者に聞かせるのも惜しく、
 二人きりの時にしか呼んでくれるなと頼んだ。
 愛おしいものが呼ぶ自分の名は特別な響きを持っている。
 かつてゆきは言っていた。
 自分の名前が好きでなかったことがあったと。
 けれど俺が呼ぶたび、自分の名を好きになれると言っていた。
 ゆきは俺の隣に寄り添うように座った。
 恥じらうお前も愛らしかったが、空気のように自然に寄り添うお前もまた愛おしい。
 変わらぬ愛をかつての皆の前で誓ったが、ゆきを妻だと思ったことがない。
 妻とは郷里に残し、家を守らせるもの。旅や、ましてや戦に伴うものではない。
 旧態然とした考えなのかもしれないが、そうとしか思えなかった。
 ゆきと所帯をもった覚えも無い。
 守りたいものはただお互いであり、志であり、家ではないからだ。
 子でも成せばまだ、違ったのかもしれないが。
 いつでも、いつまでも側にいたい。
 そう願う存在はやはり恋人と言う方がしっくりくる。
 お前は永遠の俺の恋人。
 お前に今も恋をしている。
 お前の瞳に恋の色が浮かぶたび、喜びを覚える。
 こうして穏やかに日を送る今はかえって幸せを見失いそうになる。
 極限まで追い詰められた状況だからこそ、見えやすいもの確かにあった。
 緩やかな時間は、大事なものの輪郭すら溶かしてしまう気がして
 どうも落ち着かない。
 ゆきはそんな俺を笑う。

「そんなに落ち着かないんですか?」
「今まで生き急いできたからどうもな」
「晋作さんがこうしたいって言っていたんですよ」
「それもそうだが、ゆき。
 お前は今、幸せか?」
「当たり前じゃないですか」

 迷いの無い笑顔でそう言い切ってくれるゆきに救われる。

「どうしてそんなことを言うんですか?」
「生きるか死ぬかの狭間にあった時は、生きているだけで幸せと感じられた。
 しかしこうして平穏になってしまうと、それだけで幸せと感じるのが難しい。
 贅沢な悩みだ」
「でも晋作さんが悩んでいるのはそういうことじゃないんでしょう?」

 お見通しとばかりにゆきが微笑む。
 聡い女だ。

「晋作さん。
 わたしの名前が『ゆき』なのはどういう意味だかわかります?」
「『雪が解けて春になる』だったか?」
「それだけじゃないんです。
 幸せの『ゆき』。
 行きと帰りの『ゆき』。
 振り向かず前を向いて幸せに生きられるように。
 そういう意味もあるんだって教えてもらいました。
 だから大丈夫です。
 お父さんや、お母さんに晋作さんをあわせてみたかったけど、
 瞬兄や祟くんが側にいるから、きっと二人とも寂しくない」
「お前にだけ生まれ故郷を捨てさせて、寂しい思いをさせているような気がしていた。
 前を向いて生きる、お前らしいな。
 お前を育てた両親はさぞかし立派な人なのだろう。
 一目挨拶でもと思っていたが、
 ……そうだな。
 いつか春風に乗って、挨拶にいこうか」

 ゆきは微笑み頷いて、俺の肩に身を預けた。






背景素材:空色地図
『風待草ー花ー』続いています。よろしければ。

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