風待草 −雪−
−2−
襖の閉まった音にぴくりとし、お前は打掛の衣を頭から被り震えていた。
「ゆき」
「……」
答えず、ゆきは震えたままだ。
隣に腰を下ろせば、ゆきは後ずさった。
「ゆき」
「……」
出来るだけ優しくしたいと思っているのに、
先ほどの余韻が尾を引いて、熱が醒めない。
自分の命の残量はわかっていた。
お前を見送るまでの命だろうと、諦めていた。
心を根こそぎ奪った女を、奪わずにいられる男などいない。
どれほどお前を抱きたかったか。
激情をどれほどの力で抑え込んできたのかお前は知らない。
俺がお前をどれほど欲してきたか思い知らせてやりたい。
今、この瞬間にも力づくで奪うことは出来た。
けれど、お前に恐れられ、拒まれるのも辛い。
命を俺に喰らわせた代償に得るものがそれであるのなら、
なんと哀れなことだろうか。
「ゆき、返事くらいはしてくれないか。
俺もお前に恐れられるのは辛い」
「……」
「ゆき」
「…………ごめんなさい」
「謝るな」
「……ごめんなさい」
「お前とこうして生きることができると思っていなかった。
俺は喜びのあまり少し焦り過ぎたようだ。許せ」
かつて父の手のようだと言われた時は面白くなかったが、
今お前が欲するのはこのような優しさなのだろう。
そろり、そろりと頭を撫でれば、お前は恐る恐る衣から顔を出した。
俺を恐れ、遠慮していた頃のお前に戻ってしまっている。
お前のそんな顔は見たくは無い。
「お前にかつて距離を詰めるから覚悟しろと言ったことがあったな」
「……はい」
「お前に今その覚悟を強いるのは酷かもしれない。
だが、俺はずっとお前に触れてみたかった。
惚れた女を抱きたいと思うのは男として当然のことだ。
けれどお前に拒まれるのは……辛い。
思っていた以上にな。」
「……」
「お前を見送るまで立っていられると思っていた。
お前が好いてくれた俺だからこそ、最後まで毅然とした俺でありたかった。
結局こうしてお前の命を喰らい生き延びている。
……情けないな」
「そんなこと、ありません」
「お前の人生を滅茶苦茶にした」
「いいえ」
「折角取り戻した命の輝きを、消してしまった」
「消えてなんかいません。
むしろずっと今生きているって実感しています」
「しかし」
いつになく自分が自己嫌悪に囚われていると感じた。
こんな姿は、誰も見せたことは無い。
迷うときは独りでじっと耐えてきた。
ずっと自分の意思で貫き通してきた筈の人生が、初めて流され、
思い通りにならないことに苛立ちを覚えた。
こんなみっともない姿をお前に曝したくは無い。
外の空気を吸い、一度熱を冷ましたほうがいい。
立ち上がろうとした俺をお前の手が捕らえた。
その華奢な手を振り払うことは容易いはずなのに、
お前のその瞳が真っ直ぐに俺を射抜く。
「高杉さん、聞いてください。
元の世界に戻って長い人生を生きることが出来たとしても。
高杉さんがいなかったら、きっと生きるだけの何の意味もないものに
なってしまっていたと思います。
わたしのわがままなんです。
余計なことをしたのかもしれません。
でも、高杉さんに生きて欲しかっただけじゃない。
わたしが高杉さんと生きたかった。
どんなに短い命でも、側にいられたらそれで良かったんです」
「ゆき……」
俺がお前の八葉だと、宣告した時の瞳の輝きで、
お前は俺を見つめていた。
俺の心を射抜いた眼差しで、そんな言葉を言われて痺れないはずは無い。
頬に触れれば、ぴくりと身を竦めたけれど、それ以上ゆきは逃げなかった。
耳まで紅く染まり緊張で細かく震えているのに、俺を拒むまいと耐えていた。
「……でも、こういうのは考えたことが無くて、
びっくりして」
「嫌か」
「嫌じゃ、ありません。
ただ、……恥ずかしくて」
「恥ずかしいか」
「…………恥ずかしいです」
頬に添えた手でそのままゆきを上に向かせ、口付ける。
少し冷たい柔らかな唇に俺の熱が移っていく。
観念して閉じた目蓋に口付けを軽く落とし、さらに深く口付けた。
緊張でカチカチと鳴る歯列を割り、舌を絡めれば驚いて逃げようとした。
逃げるから追いたくなるというのに。
「高杉さん、もう……」
「嫌か」
「……よくわかりません」
「そうか」
お前の態度が拒絶ではなかった喜びに打ち震え、
袷を開き首に舌を這わせようとして、きらりと光るものが見えた。
「ゆき」
「何ですか」
「これを外してくれないか」
目付け殿に貰った護りの首飾り。
ゆきは薄れていく自分の体を俺たちに悟られまいと、
幻術がかかったその首飾りを身に着けていた。
「まだ、つけていたんだな」
「……はい」
「目の前で消えられても困るが、もう終わったと確信したい。
それを外してくれ」
「わかりました」
ゆきがそれを外すのを見守る。
ゆきは大事そうにそれを外し、枕元にそっと置いた。
俺はゆきの右手をつかみ、灯りにかざす。
透けていない。
ゆきが漏らした安堵の吐息は、そのまま別の音色に変わった。
手を握っているだけだと油断していたゆきがうろたえているのがわかる。
サトウ殿が落とすような礼儀の口付けなどではない。
掴んだ右手にそのまま舌を這わせ、指を咥えて見せれば、
直視することに耐えかねたゆきは顔を背けた。
「逃げるのなら今のうちだ。
……逃げたいか」
「逃げません」
「そうか」
「かくご……」
「ん?」
「覚悟しておけって言ったのは高杉さんじゃないですか」
「それもそうだな。
お前が思っているほど俺にも余裕などないかもしれないぞ」
「そうなんですか?」
行灯で浮かぶ陰影の中、意匠の凝らされたその模様は明るいだけの
場所で見るよりもずっと印象的に浮かび上がり、
その艶は、ゆきをより清楚に見せている。
確かにそれを美しいと思った。
「美しい衣は確かにお前を引き立たせる。
他の男が与えたものをお前が身に纏うのは正直妬けた。
が、お前にこうして触れられるのは、俺だけだ。
お前もそれを他に許すな」
掴んでいた右手を離し、そのまま袖の中へ進入する。
柔らかな二の腕の内をするりと撫でれば、ゆきは甘い息を吐いた。
「高杉さん、だけです」
「お前は春風に抱かれる優しい夢を見た、と言った。
現実は、そう甘くはないかもしれないが。
もう、お前を放す気はない。許せ」
「……信じていますから」
「お前の言葉は俺をいちいち芯から射抜く。
それ以上今は言わないでくれ、俺から余裕を奪ってくれるな」
ゆきはくすりと笑った。
「いつも自信たっぷりじゃないですか」
「それほど自信に満ちているわけでもないさ。
だが、俺は迷っている姿を見せるわけにはいかないからな。
お前には虚勢だとわかるだろう」
上着の釦を外していき、ゆきの手を胸にあてた。
自分でも早いと感じる鼓動の速さにゆきは驚いたようだった。
ゆきの目が、ふと別の場所に向く。
釦がひとつ外れかかっているようで、ゆきの手がそれを撫でる。
ゆきが積極的に俺に触れようとしているのなら、とその手の動きを見守った。
「いつもきっちりしているのに」
「見えない場所などそんなものだ」
照れくさくなり、そっぽを向けば、ゆきは可笑しそうに微笑んだ。
初めてでもあるまいに、俺は緊張していた。
本当に惚れた女を抱くときは、過去の経験など何の意味も成さないのだろうか。
「後で付け直します」
「出来るのならやってもらえると有難い」
「はい。
わたしも高杉さんにしてあげられることがある方が嬉しいです」
「……そうか。
俺はお前が思っているよりも情けない男かもしれないぞ」
「そうですか?
でもそんな高杉さんも、好きですよ?」
不思議そうな顔をして俺を見上げるゆきに、全身の力が抜けたようになった。
俺はどれだけ無駄に力を入れたまま生きてきたのか。
力を抜くことも知らずに、ただ我武者羅に突き進んできただけだのだと
お前に今教えられている。
お前の魂によって生かされている俺は、既に前の俺ではないのかもしれない。
「ゆき、お前には全て晒そう。全て分かち合おう。
最後の時まで、等しく傍に。
……お前を遺していく後悔も、心配もない。
魂を分かち合い、これから契りを結ぶ今、死後離れることもない。
もう二度と、放さない。……いいな」
ゆきは微笑むと、ゆっくりと頷き、俺の腕におさまった。