風待草 −雪−




  −1−



 お前は俺に名を呼ばれるといつだって嬉しそうな顔をした。
 俺が呼ぶたび『ゆき』という名が好きになる、と。
 昔『ゆき』という名を好きでなかったのだといつかお前から聞いた。
 俺は綺麗な名だと思っていた。どこか儚いお前には似合いの名だと。
 けれどお前は『雪』という響きを冷たく感じ、
 解けて消える儚さに寂しさを感じていたのだという。
 何故その名を付けたのか父御に尋ねてみたところ、
 『雪が解けると何になるのか』と逆に謎かけをされた。
 幼かったゆきは正直に水になって消えてしまうと答え、
 寂しくなって母御に泣き付けば、母御は笑って教えてくれたのだという。
 『雪が解けると春になるのだ』と。
 心根の真っ直ぐなお前はきっと愛されて育ったのだろうと思っていた。
 そして名のとおり新雪のようにお前は穢れのない神子だった。
 俺はお前に触れるたび、積もったばかりの雪に足跡を踏みつけて汚すような
 そんな罪悪感に打ち震える。
 しかし、お前は首を振り俺から離れようとはしない。
 最初抱きとめ、捕らえたのは確かに俺だった。
 けれど今はお前が俺を求めて手を伸ばしてくれる。
 迷うことなくその手を取ろう。……拒む理由はもう無いのだから。





 悔しいが、小松殿の見立ては正しい。
 薄紅の打掛はいつもの戦装束の凛々しさとはまた違った良さを引き立たせた。
 ほのかに香るは梅花の香。
 派手さはないが意匠に凝った衣に浮かぶ模様は梅の花。
 ゆきには少し渋い柄かもしれないが、あえて梅の花を選んだのは、
 俺へのあてつけか。
 一口だけ口にした酒が、お前の頬を染めいつになく顔色がいい。
 龍の供物という役割を終え、透き通るようだったお前に生気が戻った。
 いつもより少し色っぽく見えるのは薄く紅をひいているのか。
 いちいち小松殿の趣向がゆきに合い、内心面白くはなかった。
 だから唇を奪えと言われ、見せ付けてやりたい気分もあったのだろう。
 口付けに慣れないお前は、驚き、怯え身を硬くして、歯をカチカチと鳴らした。
 そんなお前が愛おしく抱きしめる腕に力を込めれば、
 観念したようにくたりと身を預けた。
 目を閉じることも忘れ、疑問に目を見開いていたお前の瞳が次第に潤み始める。
 これ以上は酷か。むしろ俺の理性が持たない。
 口を離せば、息を止めていたお前は肩で息をしていた。

「これでいいのか」

 問えば、サトウ殿は充分だという風に頷いた。
 何か言っていたけれど、それを聞く余裕は無い。

「ではこの宴はお開きということでいいか、小松殿」
「かまわないよ。もう夜もふけたことだしね」

 小松殿は女中を呼ぶと離れへ、と囁いた。
 女中が俺について来る様先導していくそぶりを見せたので、
 くたりとしたゆきを抱き上げた。
 何も言わずにこの場を辞すのも失礼か。

「祝福、いたみいる。
 では」

 そう言って身を翻せば、一瞬ゆきが身を捩ったけれど
 かまうことなく女中の後を追う。
 通された部屋の障子を閉め、女中が下がっていくと、
 ゆきがじたばたと暴れだした。

「高杉さん、もう、降ろしてください」
「……ああ」

 ようやく二人きりになれた。
 逸る気持ちを抑え、ゆきを降ろす。

「わたしだって、最後に皆にお礼をいいたかったのに、
 高杉さん、酷い」
「そうか」

 改めて言われないと思いつけないほど俺は余裕を無くしていたのか。
 女を知らない初心な年頃でもあるまいに。
 そんな自分におかしくなり笑えば、
 何がおかしいんですか、とゆきは睨んだ。

「やっぱり皆に挨拶したいから、戻ります」
「待て」
「嫌です。もう会えないかもしれないのに」

 お前は俺と二人きりでいたくはないのか。
 そう口に出しそうになり、流石にそれは情けないと飲み込んだ。
 けれどやはりもう離したくはない。
 強引に手を取って引き寄せれば、観念したのか大人しくなった。

「宴は終わった。皆それぞれ引き上げただろう。
 もう、負いかけるのは無駄だと思うが」
「そうですか」
「また会えることもあるだろう」
「……そうですね」

 ゆきが寂しげな顔をするのは仕方ないと思いつつも、
 この二人きりという状況を俺ほどは喜んでいないのかと内心落胆した。
 嫁ぐ自覚の無い娘がわけもわからぬうちに初夜に放り込まれたのだ。
 この状況を飲み込めというのも無理な話だと思い至り、
 自分の余裕の無さを恥じる。
 外套を脱ぎ、刀と脇差を抜き、上着の一番上の釦を外して首元を寛げた。
 汗ばむ首筋に思った以上に自分が緊張していることを知る。

「これからは俺と二人きりだ。嫌か?」
「嫌じゃありません」
「それならいい」
「……ここ、高杉さんの部屋ですよね」
「そうだろうな」
「わたしの部屋は?」

 きょろきょろと無邪気に見回すお前に一瞬意地悪な気持ちがわいた。
 この部屋に通された時から、確信はあった。
 小松殿があそこまでの心配りを見せたのなら、きっとそうだろう。

「ゆき、その襖をあけてみろ」

 何の疑問も持たずに、ゆきはそろそろと立ち上がり、
 続きの間の襖を開けて絶句した。
 一組の布団と並べられた二つの枕。
 あれ?と首をかしげ、流石に思い至ったのか、ゆきが後ずさった。
 少し苛めすぎたか?
 後ろに立てば、ぴくりとゆきの肩が震えた。

「俺と二人きりとはこういう意味だが。
 お前は嫌か?」
「あ……」
「俺が怖いか」
「…………」
「お前はかつて、春風に抱かれる夢を見た、と言った。
 こういうことだとは思っていなかったのか?」

 そろりと髪をすくい、そのまま耳、顎と撫でれば、
 お前は震え、逃げようとした。
 背後に俺が立つ以上、お前の逃げ場はその先にしかない。
 お前は自らその部屋に踏み入り、へたり込んだ。
 俺は続き部屋の明かりを消すと、寝所に入り後ろ手で襖を閉めた。


背景素材:空色地図

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