風待草 −花−




  −1−



 切れ味の優れた刀の刃には、美しい波紋がある。
 強い刀を作るのなら、硬い鋼で作ればよいと、考え至るは容易いが、
 最も硬いとされる鋼だけで打った刀は存外脆く折れやすい。
 この国の刀特有のしなやかさも粘りもないそれは切れ味も数段劣るのだという。
 柔らかなものと、硬いもの。
 それを幾重にも折りたたみ、混ぜ合わせることなく一つにしていくことで、
 どちらの持ち味も兼ね備えた刀となる。
 意外なことかもしれないが、刀とは柔らかな心鉄を硬い鋼で押し包み鍛えられる。
 真に切れる刀の芯とは柔らかいものなのだ。
 愚かにも、男とは芯が柔らかいことを恐れる。
 強い信念を持つものほど、純粋に硬く強くあることに拘るものだ。
 果断で強引なあの男にも同様の恐れがあったに違いない。
 だからあの時一度崩れ落ちたのだろう。
 一番曝したくない時、一番曝したくない相手に見せてしまった己の弱さ。
 さぞや、あの男は無念であっただろうけれど、
 あの花は自分の魂をもってしてあの男をもう一度鍛えなおし、
 君たちは一対の刃となって生まれ変わった。

 高杉。
 あの時君は、護りきることを誓った乙女の命を代償に、
 生き長らえる業の深さに絶望し、苦悶の表情を浮かべていたね。
 けれど、苦痛に耐える顔と、快楽を堪える顔は限りなく似ることもある。
 あの時君が浮かべていたのは愛した女と魂が交わる愉悦そのものではなかったの?
 やせ我慢が得意で、弱みなど見せたがらない君は、虚勢を張るのが実に上手い。
 苦悶の表情で取り繕って、いつものように私達に真意を悟らせまいと
 そう見せていたのでしょ?
 強さなど求めない私には見えていた君の弱さ。
 君は龍馬ほどに私に心を許すことはしなかった。
 それは私の身分ゆえのことではない。
 見透かされることを君が嫌ったから……そうでしょう?
 ただ羨ましいと思うこともある。
 自分が自分であることに拘り、志を貫く生き方が出来る君たちが。
 潔さを美徳として、己の信ずるが侭に生きられたらと、そう思うこともある。
 私は私であることに拘ることは、当の昔に諦めている。
 自分がどう変わるかを楽しまなくてはやってなどいられない。
 いつしか次第に花開いていくあの花を眺めるのが私の楽しみになっていた。
 花の香りを感じたときには、もう遅かった。
 花開いたと気づいたときには、もう春風が攫っていた。
 今の私には記憶に焼きついた香りに思いを馳せることくらいしか出来ない。




 

 ひとり連れ出され何があるのだろうと警戒するゆきくんに先に湯殿を使わせた。
 湯上りの君はいつになく頬が上気して、
 さっぱりとした肌に少し濡れた髪が張り付き、それはそれで風情があった。
 他の男のものになる君を、最後に飾って何になる。
 そう思っている側付はいつになく無表情を装おうとして失敗していた。
 女中たちも最後の別れを惜しもうとしているのがなんとなくわかる。
 ……数度この屋敷に訪れた君を、私の妻にと奮戦したものたちもいたが、
 素直で穏やかなゆきくんは、下のものたちにまで意外な程に慕われていた。
 何故かこの家から嫁ぐ娘を送り出すような空気になっているのに、当の君だけ気付いていない。
 君に会うのはこれで最後。
 最後だからと懇願し、しぶしぶ君は私の言うとおりにしてくれた。
 君は本当に私の思い通りにならない娘だった。
 儚げで、強い意志も、はっきりとした性格ですら持っていなさそうに見えるのに、
 容易く私の思い通りにはなってくれない。
 今まで思い通りにならないことのほうが少なかった筈なのに。
 最後にまで君は私の思い通りになることはなく、あの男と共に往く。
 また、それも君らしい。
 そう微笑んでいられるのはいつまでなのか。
 君の喪失は堪えるだろうな。
 そうひっそりと笑う私を君は不思議そうに眺めた。

「ゆきくん、……君のもといた世界での花嫁衣裳とはどんな色だったの?」
「花嫁衣裳、ですか?」
「流石に異国風のものを取り寄せるには時間が足らないのだけれどね。
 もしここに君の心に添うものがあれば選んで欲しいのだけれど、どう?」
「よく、わかりません。
 それにどうして私が着物を着るんですか?」
「私が着て欲しいから。
 それではいけない?」
「はあ……」

 普通の娘なら、美しい着物を選んでいいと言われれば、
 嬉々として身に当ててみるだろうに。
 本当に君は手強い。

「じゃあ攻め手を変えてみようか。
 今宵皆で集まり最後の宴を催すことにしたんだよ。
 だから君に着飾って貰いたい、というのは?」
「最後の宴、ですか?」
「……まったくもう。
 聡いのか聡くないのか時々わからなくなるね。
 君は、高杉と行くことに決めたのでしょ。
 高杉は長州に戻ると言っていなかった?」
「はい」
「八葉の勤めが終わり、皆それぞれの場所に戻された。
 龍馬と桜智はともかく、
 新しく将軍職につく一橋卿のもとで働くことになるであろうチナミ、
 あくまで今の上様に尽くす信念を貫く新選組に戻る総司、
 一橋派を表明しつつも倒幕を目指す薩摩の家老の私、
 この国を離れるかもしれないサトウ君。
 身内同士で血を流す混乱の渦中の長州に戻る高杉に同行する君。
 もう一同に会することはないかもしれない。
 ここまで言えばわかるのかな?」
「あ……」
「ひとりひとりに会うことは可能かもしれないが、
 もう八葉としての勤めも無い以上この私にも皆を集めることは難しい。
 だからこそ、今宵皆と労いの宴をはろうと思っているんだよ」
「はい。
 でも、それと私が着物を着ることに何の関係があるんでしょう?」
「そういうところばかり君は聡いね。
 関係はないとも言えるし、あるとも言える。
 正直なところ単なる私の我侭だろうね。
 今まで頑張ってきた君へのご褒美に綺麗な着物でも贈ってあげたい、
 そう思ってはいけない?」
「はあ……」
「多分、君と私が会うのはこれで最後だ。
 私のお願いを聞いてくれない?ゆきくん」
「でも、こんなに高価そうなもの……」
「遠慮はいらないよ。
 …………神子殿が綺麗な姿で労ってくれたら、
 八葉も頑張って勤めを果たしたかいがあったと喜ぶと思うのだけれどね」
「そうなんですか?」
「どうだろうね?」

 よくわからないと君は首を傾げる。
 少なくとも皆、深さ重さに違いはあれど君を想っていた。
 君の花嫁姿は餞でもあり、君を思い切るいいきっかけにはなるだろう。
 最後に見る君が一番美しいものであったと信じることが出来るなら、
 それはいつか少しの救いと慰めをもたらす事もあるかもしれない。

「着て欲しいと願うのはただの私の我侭。
 けれど、それで納得できないというのなら、……皆の為に袖を通してくれない?」
「……わかりました」
「…………………………ありがとう。
 じゃあ着てみたいと思うものはある?」
「着物のことはよく、わかりません」
「そう。
 では、私の見立てでよいのだね?」

 にっこりと笑った私を君を不思議そうな顔で見上げたけれど、
 しぶしぶ君は頷いてくれた。
 色の白い君は、様々な色が映えた。
 女中たちも楽しそうに様々に着せ掛けては、あれこれと試している。
 私に遠慮していただけで、君だって綺麗な衣を纏うのは嫌ではなかったらしい。
 次々と纏ううちに、めかす喜びが芽生えたか、君は微笑みを見せてくれた。
 こんな時間がいつまでも続いたら良いのに。ひとときそんな夢に酔う。
 その夢想をどたどたと廊下を駆ける音が破った。

「いけません!」

 側付が得意の大声をあげると、平田殿が広間に飛び込んできた。
 衣の並ぶそこに入れないようにと言い置いていたのに、迷い込んで来たらしい。

「平田殿、こちらへおいで」

 声をかけても聞こえないふりをするように、
 平田殿はゆきくんのもとへ歩いていく。
 ……爪を立てなければ衣を傷めることも無いか。
 ゆきくんと平田殿がじゃれあう姿は心和むもので、邪魔をするのも野暮かと連れ出すことを諦めた。
 すりよる平田殿をゆきくんは嬉しそうに撫でる。

「お久しぶりです。平田さん」
「平田殿も、君に別れを言いたかったのかな」
「あ……」

 私と別れると聞いた時には素直に寂しそうな顔など見せなかったのに、
 猫と別れるのは寂しいのか。
 君の表情が曇る。

「仲良くしてくれて、時々遊んでくれてありがとう。
 平田さん」

 ひとしきり撫でられると、それに飽きたか平田殿はするりと行ってしまった。
 それをじっと眺めているうちに、ゆきくんの目に涙が浮かんだ。

「別れを実感した?」
「……何だか寂しくなってしまって」
「そうだね。
 私も君にもう会うことがないと思うと寂しく思うよ」

 いつになく素直に口から出た言葉に自分でも驚いたけれど、
 ゆきくんは意外なものを見る目で私を見た。

「小松さんも寂しいんですか?」
「何を言うの、君は。
 ……あたりまえでしょ。
 それとも、いい歳をした大人の男が寂しがるのがおかしい?」
「何だか、少し意外で……」
「そ、そう?
 まあ他に誰もいなかったから、君にそう言えたのかもしれないよ?
 流石に他の皆がいたら、そう素直には言えないかもね」

 照れ隠しに笑って見せれば、君も安心したような顔をする。
 髪を撫でれば、君はくすぐったそうに笑った。
 君が私の膝で眠ったこともあったのに。
 それ以上君を引き寄せることは出来なかった。
 しんみりしてしまった空気を払うように、勢いをつけて広間を見回す。
 まだ時間はあるとはいえ、着せ替えばかりしていたら君が疲れてしまうだろう。

「……どの着物も君に似合うからきりが無いね。
 どれも惜しいが、これにしようか」

 目に留まったそれは広間に並べさせた中でも地味な部類に入る衣だった。
 女中がこんな地味なものを花嫁に着せるのですか?と
 じろりとこちらを見たけれど、羽織らせてみれば感嘆の声を漏らした。
 薄紅色のその衣は、他の色が一切使われていない一見無地に見えるものだった。
 しかし光の具合によって、柄が浮き出る凝った意匠で、
 派手な柄でない分、君の清楚さを引き立たせるものだった。
 柄は梅の花。
 桜も君は似合うだろうが、『春風』の対はやはり『梅』こそ相応しい。
 纏う香は、『梅花』。
 焚き染めず、枝に咲く梅の花のようにどこかゆかしくほのかに燻らせる。
 髪もいつもの髪の型はそのままに、ただ簪を刺して少しだけ華やかさを添えて。
 いつもの面影を壊すことなく少しだけ華やかさを添えたほうが、
 思い出には優しく馴染むだろう。
 支度を終えた君を眺める。

「……綺麗に支度できたね。
 瞬や都くんにも見せてあげたかったかな」

 瞬や都くん、郷里の家族と二度と会えないことを思い出したのか、
 君は一瞬涙を堪え俯いたけれど、すぐに真っ直ぐを向いた。
 支えてやりたいと思う程度に君は儚く見えるのに、
 他人の手を必要としない強靭さを君は実は秘めていて、
 結局たいしたことのしてやれない無力さが歯がゆかった。
 私をそんな気持ちにさせるのは、君くらいしか思いつかない。
 そんな君は高杉にはどんな顔を見せるのだろうね。
 こっそりとため息をつく。
 もとより色の白い君に化粧は必要ない。
 けれど命を削ってきた君はいつも青く透き通るような顔色で、
 皆はいつもそれを心配していた。

「紅を」

 女中に持たせたそれを薬指でそっとのせる。
 触れた唇は柔らかく、少し冷たい。
 驚いた君が動く。
 慣れない紅に、ゆきくんは戸惑ったのか自信無さげな顔で私を見上げる。

「変じゃないですか?」
「このほうが顔色が良く見えるよ。
 もう少しで終わるからじっとしていて、ね」

 くっきりと筆でひくのではなく、ほんのり色をのせ、血色の良さと見せる。
 最後に会う君にきちんと生気が戻ったのだと皆が安心できるように。
 君に触れるのはこれで最後。
 私に出来ることは、これで終わり。
 さよなら、ゆきくん。
 声に出さずに呟いた私を君は不思議そうに見上げ、首を傾げた。


背景素材:空色地図

お気に召していただけたらぽちっとして頂けると幸いです