風待草 −花−




  −2−



 かつて英国の大砲が薩摩の地を火の海にするのをこの目で見た。
 禁門の変で焼けた京の街を駆けたけれど私がしたのは戦の後処理。
 焼け落ちていく麹町から逃げ惑う民衆も目蓋に焼き付いている。
 結局、血で血を洗うような人同士の戦は幸運にもまだ目にしたことは無かった。
 君がどんな風景を目にしたのか、私には想像することも出来ないが、
 君は高杉に寄り添い、戦場を駆け、最後まで守りきった。
 高杉から来た文には、これを機に桂くんに先を託して隠棲するとあった。
 これからという時に身を引かねばならないということがどれほど無念かと
 考え付いたとき過ぎったのは寿命という言葉だった。
 きりの良いところで身を引き、次に引き継ぐというのは大切なことだ。
 ずっと信じてきた桂くんという人物がいたからこそ、身を引く覚悟もできたのだろう。
 潔い人物であったことは確かだ。
 文面にはゆきくんが息災であるとしか書かれていなかった。
 君は思う男の隣で幸せを感じているのだろうか。
 気がつけば寒さも緩み、いつ吹き抜けたかわからぬままの春風に乗って、
 君と別れてから幾度目かの春がやってきた。
 いつまでも妻を迎えようとしない私が、平田殿とこうして戯れているのを、
 屋敷の者たちは諦めたような顔で見ていた。
 別にゆきくんと添えなかったから独り身でいるわけでもないのだが、
 屋敷の者たちはそう思うことにしたらしい。
 困ります、とかお待ちくださいという声と共に聞きなれた足音が聞こえ、
 不服そうになあ、と鳴いた平田殿が庭に下りていけば、龍馬がやってきた。

「帯刀」
「龍馬。
 ……何、こんな時間からそんなに酔って」
「こんなのは酔ったうちには入らんさ。
 ただ一人で呑むのもつまらないだろ。お前も付き合え」
「こんな昼間から?」
「別にいいだろう」
「やれやれ」

 どかっと腰を下ろした龍馬から、ぐいのみを渡され、酒を注がれた。
 口をつけるまで龍馬に睨まれ、仕方ないねと飲み干した。

「まだ日も高いのにね」

 ため息をつき、こんなのどかな日だからいいか、と障子を開け放つと、
 庭から梅の香りが風に乗って漂ってきた。
 その何処か懐かしい香りと、風の優しさが、胸の切なさをかきたてる。

「……春風だなんておかしいね。
 あれほど厳しい男だったのに。
 冬将軍と言ったほうがしっくりくる気さえするぐらいじゃない?」
「いや、案外あいつは情の深い優しすぎるくらいの男だったさ」
「そうだったね」
「冬の最中に春を呼ぼうと決死の覚悟で駆け抜けたんだ。
 春風って甘い響きはいまいち馴染まないが、存外似合っていたのかもな」
「……そうだね。
 時代に春を呼ぼうとしたのだから、
 春風の名に恥じない生き様だったのかもしれないね」

 龍馬の目が赤いのは酒のせいだけではないのかもしれない。
 先ほどからしきりに瞬きを繰り返す。

「晋作が……」
「ん?」

 袖でごしごしと顔をこすり、龍馬は笑う。

「晋作がが春なら、俺は夏。帯刀は秋かな」
「……秋は、秋でも晩秋だろうね。
 全てを刈り取り冬に向けて支度をするのが似合いだよ。
 稲穂の海や、紅葉の赤は私には少し鮮やか過ぎる」
「でもその準備がなけりゃあ冬を越せないんだぜ?」
「……まあ、坂本龍馬に、そう評してもらえるのなら光栄かな」

 目蓋を閉じれば、最後に見送った君の後姿が蘇る。
 一度も振り返ることなく君は、好きな男に寄り添い歩いていった。
 困ったことがあったら私を頼りなさいと言っても、
 君から文が来たことは一度も無い。
 船でも大砲でも入り用なら知らせるようにと高杉に言い置いたのに、
 結局全て終わった後、ただ終わったと知らせる文が来たのみだ。
 龍馬は何度か長州の高杉とゆきくんを尋ねる機会はあったようだけれど、
 私はあれが最後だった。

「龍馬、君はまだ所帯を持たないの?」
「ん、ああ……縁があればなあ。
 帯刀こそ、周りが煩いんじゃないのか?」
「私?
 そうだね……。
 家老である限りは妻をとるつもりはないよ。
 誰ともそこそこ上手くやる自信はあるけれど……、
 利用するのもされるのも御免だし、あの二人を見た後だと考えてしまうね。
 ただの私と添う人と何処かで出会いはないものかとね」
「……帯刀」
「上様には悪いけれど、大政奉還を成して貰って倒幕が成れば、
 さっさと地位と領地を返上して早いこと私は自由になるよ。
 そしたらきっと君は目まぐるしい日々が始まるかもしれないけれど」
「お前は新しい世の中に必要だと何度言ったら……」
「龍馬」

 何度も繰り返されたやりとりをぴしゃりと遮る。
 今日の龍馬は少し感傷的になっているのか。
 龍馬は私を不服そうな目で見たけれど、ぐいのみの酒を飲み干し、
 大きくため息を吐いた。

「君の評価は嬉しいけれど、身分に関係のない世になるのなら、
 私は身を引くよ。
 そしたら……私だけの花を探すのもいいかもしれないね」

 見つかるかどうかわからないけどね。
 ちいさくそう呟けば、龍馬がため息をついた。

「やっぱりお嬢を忘れなきゃいけないんだよな」
「……そんなことはないでしょ。
 私たちは最高の花に出会ったのだから、忘れられなくても仕方はないよ」
「そうなのか?」
「……考えてもみて。
 龍が選んで数百年に一度だけ咲く花だよ?
 八葉に選ばれなければあの花には出会うことも出来なかった。
 私たちは幸運だったんだよ」
「……そうか、そうだな」
「一番最初に出会った花が最高のものだった。
 それが君の幸運であり、不運でもあった。
 そういうことじゃない?」
「でも、お嬢と出会わなかった人生なんて考えられない。
 そういう運命だったんだな」

 引き合わされる運命を与えられたけれど、運と縁が足りなかったね。
 袖で顔を覆い大の字に寝転がった龍馬を横目に庭を向く。
 ……そもそも八葉が何故八人もいたのだろう。
 ただひとりのひととして巡り会えたらそれ以上の幸せはなかった筈なのに。
 それでも君と出会わなければ良かったと思えなかった。
 風に攫われて舞った梅の花びらの行方を目で追えば、
 それはふわりと池に浮かんだ。
 蓮水ゆき。
 その名で睡蓮を連想し、昔書物で読んだことを思い出した。

「龍馬。
 何かの書物で読んだのだけど、睡蓮の花は三日三晩咲き続け、
 咲き終わると散ることもなく水中に没してしまうそうだよ。
 ゆきくんは散りゆく様すら私たちには見せてくれなかったね」
「残念な気もするが、それも何だかお嬢らしい潔さだ」
「次に会えるのはいつになるかわからないけれど、
 彼女に恥じる生き方だけは出来ないね」
「……ああ」

 寝転がっていた龍馬は起き上がり、姿勢を正すと、
 ぐいのみに酒を注ぎ足した。

「目の前にいないのに、我々の姿勢を正させるなんてたいした神子殿だ」
「違いない」

 春風と、可憐な梅の花に乾杯。
 かちんとぐいのみを打ち合わせて、酒を飲み干せば。
 堪えきれなくなったか、目から酒がと龍馬は笑った。







背景素材:空色地図

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