風待草 −月−




  −2−


 戻ってきた時には、いつもの定宿の前にいた。
 さっきまでいた場所とのあまりの違いに一瞬自分が何処にいるのか
 わからなくなりきょろきょろ見回していたらおかみさんに声をかけられて我に帰った。
 最近ずっとお嬢についてお目付の邸に寝泊りしていたことも多かったから、
 ここに来るのは久しぶりだ。

「久しぶりだな。おかみさん。
 また暫く厄介になるぜ」
「そりゃかまわないけどね。暫くお見限りだったから、
 どっかであの初恋の娘さんと所帯でも持ったのかと思ってたよ」
「……残念ながらそうはならなかったんだよなあ」
「そうかい。
 そりゃ気の毒だったねえ。いつもの部屋あいてるから使っておくれ」

 お茶でも飲むかい?
 そう言ったおかみさんにまた今度と言って宿を飛び出した。
 さっきまで確かに全員でいた筈だった。
 きちんと別れも労いもできないまま別れていいのか。
 人の縁はそんなもので終わっていいものじゃあないだろう。
 お嬢と晋作はあの後いったいどうなったのか。
 最後に見たのは光に包まれたお嬢と晋作。
 お嬢が晋作に命を分けると言っていたあれはうまくいったのか。
 俺が定宿に戻されていたのなら、皆それぞれの場所に戻ったに違いない。
 とりあえずお目付のところと、薩摩藩邸に英国領事館……。
 新選組の詰所を行くのは気が引けるが沖田はそちらに戻されているんだろうか。
 とりあえず薩摩藩邸に向かえば、門番が胡乱な顔で通してくれた。
 取次ぎを待てという制止をいつものとおりかい潜り、いつもの部屋に行けば
 帯刀は普段どおりに執務をしていた。
 俺の足音に驚いたのか帯刀の傍らに寝ていた白猫があんと鳴いて抗議して
 傍らをすり抜けていく。
 目を通していた書類から目を離し、白猫の行方を目で追った後、
 おもむろに帯刀は俺に向き直るように姿勢を正した。

「龍馬」
「帯刀、戻ってたのか」
「……いきなりこの場に戻されたから皆が驚いて困ったよ。
 龍馬もそうでしょ。
 一緒にいたはずの八葉がいないから少し驚いたけどね。
 皆ちゃんとそれぞれの場所に戻されているよ。律儀なことだ。
 ただゆきくんと高杉の居場所がまだ、掴めていない……。
 長州藩士御用達の隠れ家、なんかにいたらお手上げだけどね」
「おう、流石に仕事が速いな」
「……誰かが戻っていないとか、寝覚めが悪いからね。
 一応把握しておきたかっただけだよ。
 目付け殿に協力を仰いで式神を使って調べて貰っているよ。
 折角ことが無事済んだのに労いの言葉も満足にかけられず、
 それぞれの場所へ戻るなんて少しすっきりしないでしょ」
「そうだな、最後に礼くらい言って別れておきたいよな」
「……ついでに酒の席でも、と龍馬あたりは言い出すだろうと思って
 それも準備させているよ。
 流石に目付け殿と『御奉行』の繋がりがわかった今、
 目付け殿の邸に世話になるのも気が引けるし」
「そうだな」

 御家老。
 いつもの声の大きい側用人が駆け寄って耳打ちしたけれど、
 声が大きいから全て聞こえていた。
 本人は真剣に耳打ちをしているつもりのようだから、聞こえないふりをする。
 報告を終えぱたぱたと走っていった後姿を見て帯刀はぼやいた。

「……耳打ちは小声で囁くからこそ耳打ちだろうに。
 対面の龍馬にまで聞こえていたら何の意味もないじゃない。
 ま、いいか言う手間も省けたのだし。
 ……宴は今夜でいいのかな」
「俺は問題ないぜ」
「そう。
 他の皆も問題ないと言ってきたから使いをやることにしようか。
 龍馬。君は……あまり興味がないかもしれないけれど、一緒に見る?」

 報告は二つ。
 一つ目は愛宕山でお嬢と高杉が見つかりこちらへ向かっていること。
 二つ目は薩摩藩の懇意の呉服屋がこちらについたということ。
 帯刀は何を考えているのだろう?
 
「見るのはかまわないんだが、何を見るんだ?」
「まあ、……そうだね。
 私の自己満足というか。餞かな」

 帯刀はきりのいいところまで書類に目を通し終わったのか、
 書類をさっと片付けると呉服屋の通された部屋へさっさと行ってしまい、
 俺は慌てて追いかける。
 帯刀が勢いよく襖をあければ、広間は色の洪水だった。
 女子の着物など興味のない俺にはそこには全ての種類があるように見え、
 一瞬目が回るかと思った。

「何だってんだ」
「美しい衣を贈るぐらい許されてもいいと思わない?
 美しく着飾った神子に今までの労苦をねぎらって貰ってもばちはあたらないでしょ」
「まあ、……そうだが」
「……言ったでしょ、龍馬。
 私の自己満足だって。
 最後に私に出来ることをしたのだと実感が欲しいだけ。
 くだらないと……笑ってくれてかまわないよ」

 そう言いながら、帯刀は手際よく衣を選び、
 気に入らないものをどんどん下げさせていく。
 俺にはその価値も良し悪しもよくわからない。
 ただ帯刀が派手な模様のあるものを選んで下げさせているのはわかった。

「派手な装飾はゆきくんには必要ない。
 花嫁より衣装が映えるなんて本末転倒でしょ」
「……では、髪飾りなどは」
「それほど長い髪でもないし、あの髪に合う色のかもじはないだろうしね。
 綺麗な簪ひとつで充分かな」
「では、そのように」

 てきぱきと選ばれ、広間全体にあった衣が三分の一程度まで減らされた頃、
 側用人が晋作とお嬢の到着を帯刀に知らせた。
 帯刀が側用人についていくのを慌てて追いかける。
 通された部屋で晋作とお嬢が出された茶を飲んでいた。
 お嬢が無事でいてくれたことにほっとして腰が抜けたようになり、
 すとんとその場に座り込む。
 お嬢がそんな俺に微笑みかけてくれた。

「お嬢!! 晋作!!
 お嬢の顔を見たら何だかほっとして腰が抜けた」
「龍馬さんも無事で良かった」
「お嬢」
「ゆきくん、高杉。探したよ。
 高杉疲れているでしょ、湯を用意させたからつかってくるといい。
 ゆきくんは私とおいで」
「小松殿!?」
「……私がゆきくんを今更攫うとでも思う?
 そんな馬鹿な考えを持つくらいなら迂闊に長州の人間が薩摩藩邸に
 上がろうだなんて思わないことだね」
「小松さん……」

 不安そうに帯刀を見上げたお嬢の前に、帯刀がうやうやしく跪いた。

「ゆきくん、もう八葉ではない私が信用できない?」
「そんなことは」
「悪いようにはしないから。
 今は私についておいで。……ね」
「小松さん」
「お嬢。
 帯刀にちょっと付き合ってやってくれないか。
 俺からも頼む」
「龍馬さん」
「晋作は俺に付き合ってひとっ風呂浴びよう。
 どうせ皆が集まるまでまだ時間があるんだ。
 これからのこと、色々話すのもいいだろ?」
「しかし……」
「高杉、
 女子の身支度というのは相応の時間が要るものだよ。
 君にだってそれくらい知っているでしょ?
 ゆきくん、君は私の手間をかけさせる悪い子じゃなかった筈でしょ?
 お願いだから、ついてきて」
「…………わかりました」

 立ち上がったお嬢に、帯刀は少し寂しそうな顔で良い子だねと呟き、
 それじゃあ後ほどとお嬢を連れて歩いていった。

「心配か?」
「いや」
「帯刀がお嬢に無理を強いたりはしないよ。
 俺が保障する」
「小松殿がそんな人柄でないことは知っているさ。
 ただ……」
「ぐちぐち言うな、この色男。
 これからお嬢をお前が独り占めするんだろ。
 今日一日くらいけちけちするなって。
 おし、風呂行くぞ、風呂」
「……ああ」

 お嬢が歩いていった方向をじっと見つめたままの晋作の背をばしんと叩くと、
 晋作は苦笑いして立ち上がった。


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