風待草 −月−




  −1−


 あの人の面影を思い出すたび考える。
 人生の終わりが見えた時に俺はどうそれと向かい合うのだろうと。
 正面から対峙できる俺自身でありたいとは思うが、その時がくるまではなんとも言えない。
 誰にでもいつか必ず命の終わりはやって来る。
 上手く受け入れられる奴もいれば、じたばた足掻く奴もいる。
 千差万別、人それぞれ。それは当たり前のこと。
 心残りが少ない奴も多い奴も、夢を叶えた奴も叶えられなかった奴もいるだろう。
 人を愛した奴も、愛を失ったものも、愛した人に先立たれた奴も、
 愛する人をおいて先立たなきゃならない奴もいるだろう。
 普通終わりが来ることは知ってはいても、終わりは見えていない方が多い。
 けれど命の終わりが見えた時、人はそれからどう生きられるのか。
 怯えて何もしない奴もいるだろう。
 どうせ何もできないと自棄を起こす奴も当然いるだろう。
 静かにその時を待つのも、思い残すことが無いようにと派手にやらかすのもいい。
 志を同じくした同士が、次々と倒れていくのを見ていた。
 その生き様に心打たれるものは勿論多い、けれど
 たいていは命の終わりは唐突にやって来て、どうしてと思う死が多かったと思う。
 そういう時代だった。
 自分の命の残量を冷静に見つめ、手綱を緩めることなく終わりまで全力で駆け抜けることは難しい。
 俺の知っている限りそんな芸当をやってのけたのは高杉晋作ただひとりしかいない。
 そして俺の焦がれたあの人は、その男の人生に添ってみせた見事な女性だった。
 あんなに華奢で儚げで、強そうには見えないのに。
 大樹のように揺ぎ無いあの男の隣で、柳のようにしなやかに嵐を凌ぎきってみせた。
 揺ぎ無いことだけが強さではないのだとあの人は教えてくれた。
 志のため、強靭であることを自分に課した男の隣で、 別の強さ、
 女らしいしなやかさでその志が折れぬよう、あの人は包み込み、守り通したのだろう。
 好いた男のとなりで微笑むあの人は誰よりも幸せそうに見えた。
 それが戦場であっても同じだったのだろう。
 思い出の中のあの人の面影はいつも微笑んでいてくれて、
 夢を忘れそうになる度、挫けそうになる度励ましてくれた。
 それはかつて出会ったお嬢の面影と自然と重なる。
 俺だけのお嬢、今の俺を作ったお嬢。
 かつて交わした約束を信じ、ずっと探してきた。
 会えない寂しさに時には歯を食いしばって耐え、他に目移りしそうな自分を無理に奮い立たせ、
 やっと再会できたのに、お嬢は俺を覚えていなかった。
 俺を覚えていなくとも、俺と出逢ったあの人とたとえ別人であったとしても、
 お嬢は思い出の中と寸分たがわぬ笑顔でそこにいてくれた。
 あの頃と同じように励ましてくれた。
 また別れる日が来るのだろうか。
 あの人が言ってくれたように俺は大きくなれたのだろうか。
 やりたいこと、会いたい人はたくさんあったからお嬢の傍にだけいられる俺ではない。
 けれど、どんどんお嬢を好きになっていった。止められなかった。
 微笑んでくれるだけで幸せだった。一番幸せになって欲しかった。
 俺が幸せに出来るのならそれが一番良かった。
 再会できたお嬢と俺には縁があるのだと信じていた。
 けれどお嬢の心をあの男が捕らえてしまった。
 どうすることも出来なかった俺には、お嬢の幸せを願うことしかできない。

 晋作がお嬢に出会った頃から惹かれているのはわかっていた。
 大胆で苛烈でそして皆が思うよりも人の心情に機微がわかり、本当は優しい男だ。
 晋作がお嬢に厳しく接するのも、それが必要だったからで
 別に厳しく当たりたいわけではなかっただろう。
 お嬢の八葉として集められた輪の中に、他に適任がいなかったからこそ、
 晋作はその役目を引き受けていただけだった。
 が、晋作の中にある種の期待は芽生えていたのかもしれない。
 自分の『真心に気付くか否か』、『真に信頼を置ける存在に育つか否か』。
 無意識に晋作はお嬢を理想の女に叩き上げようとしていたのかもしれない。
 同じ志を抱く『同志』として。
 お嬢には確かにその資質はあった。
 けれど晋作は同時に迷ってもいた。お嬢が同志たり得たとしても、
 自分の志にお嬢を引き込むことが許されるのかどうか、と。
 迷っていたからこそ、晋作は遠巻きに見守り、時に導くことはあったとしても、
 積極的にお嬢に働きかけることを自制していた。
 大胆で、果断なあの男が見せた珍しい躊躇い。ああ晋作はお嬢に惚れてしまったなと思った。
 けれど、人の想いは止められはしない。
 自由であることを求めるのなら、人の心の自由を認め、受け入れなくてはならない。
 お嬢が晋作のかけた謎を解き、その心に一度でも触れてしまったら、
 ……その時は晋作はお嬢の心を全力で奪いにかかるとわかっていた。
 晋作は戦略にかけては天賦の才がある。
 待つべき時には待ち、仕掛けなければならない時は迷いなく駆けてゆく男だ。
 春風に抱かれる夢を見た、とお嬢が言った時、予感はあった。

「ゆき」

 頑なに『蓮水』と呼ぶことで堪えてきた気持ちはどれほどだったのか。
 晋作の口から初めて発せられたその声の響きにぞくりとした。
 有無を言わせず俺を見ろと甘くその声は注目を強いる。
 それは同時に恋敵への宣戦布告であり、一瞬でその場を制圧した。
 この声に鼓舞された兵は迷わず晋作の命に従い、
 きっと実力以上を発揮するのだろうと妙な納得をする。
 強い雄が群れを率いるように、頭を垂れて従えと威圧する。
 初めて聞く晋作のその声に思わず帯刀が眉を上げ苦笑いした。
 表情はいつものとおり引き締まったままだ。
 顔色ひとつ変えやしないのが憎たらしい。
 けれど、お嬢を見る目が違っていた。
 今までだってお嬢を見守る眼差しは優しかった。
 なのに今はどうだ。
 その眼差しにはいつもの一歩引いているような余裕が無い。
 男が想う女に向ける熱い眼差しだ。
 あの眼差しに何も思わないのならその女の心は氷か鋼で出来ているに違いない。
 おいおい。これが晋作の本気というわけか。
 今までお嬢を無駄に怖がらせまいと『雄』の気配を綺麗に消していた晋作が
 それを止め、堂々とお嬢を男として口説き、愛を請う。
 皆が驚きぽかんと見つめるその場で、なんの躊躇いも見せず晋作はさらに名前を呼んだ。
 その豪胆さに舌を巻く。
 お嬢は頬を染め、恥じらいながらも絶大の信頼を寄せる眼差しで晋作を見上げた。
 いや、信頼だけでは、もうきっと無かっただろう。

『やっぱりお嬢は晋作の目に適ってしまったか』

 頭をかき、考え込む振りをして、ため息をついてどうにか落胆をやり過ごす。
 一旦地面に落とした視線を上げれば、帯刀と目が合い苦笑いした。
 他の皆はただ驚くばかりだった。
 それはそうだろう。
 表向きには晋作はお嬢に厳しいばかりで、その信頼を得ようとお嬢は必死だった。
 例えればいい師弟関係のようなもの。男と女の関係には見えなかった筈だ。
 まさか晋作がお嬢に惚れていたなんて。
 チナミや、総司、都あたりはそんな屈折した心模様はわからないようで
 驚きに目を白黒させている。
 流石にサトウ殿や目付け殿、瞬あたりはその辺を理解しているようで、
 面白くないと表情に出しているのがおかしかった。
 そんな中、気にも留めない風を装って晋作は堂々とお嬢の隣を占めている。
 もう遠慮はしない、と背中で宣戦布告のおまけつきか。
 本当に何処まで豪胆なんだか、と帯刀と再度苦笑いする。
 お嬢を想う気持ちは理解できても、晋作が何を迷っていたのか
 俺達は本当には理解していなかった。
 知っていたとしても、どこか凡庸な俺には計り知れない迷いであったのだろう。
 決して弱みを見せないまま、晋作は最後まで戦い抜き、そして崩れた。
 ただ強靭であろうとした男の脆さをお嬢だけは知っていた。
 鋭い一振りの刀であろうとした男に何が足りなかったのか。
 お嬢はそれを晋作に教え、その弱さを補うことを選んだ。
 お嬢が晋作に与えたのは命だけでも、愛だけでもないのだと。
 二人が光に包まれたのを見た時にぼんやりとそう思った。
 それが何かはわからない。
 けれど俺がそれを得られなかったことだけは確かだった。


背景素材:空色地図

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