有川譲に10のお題 その1『先輩』






「おっ、譲似合うじゃん」

 将臣がにやにやしながらソファーの上から声をかけた。
 かっちりした硬い襟。
 明らかに長い袖。
 譲は少しむっとしながら、すそ上げのしるしをつける母に文句を言った。

「襟がきついし、大きいよ」
「仕方ないじゃないの、男の子はすぐ伸びちゃうんだもの。
 将臣のお下がりだけど、まあそんなに着られなかったから痛んでないし。
 大丈夫そうね」

 確かに、同級生同士で制服の採寸に行った話は聞いていた、
 自分が行かなかったのはこういうわけなのか。
 普段から将臣のお下がりが回ってくることがあったけれど、
 まさか中学の制服もなんて。

「お下がり……」
「イヤだって言うの?」
「ずっと僕の服は兄さんのお下がりだったじゃないか。
 制服ぐらい新しいのがいい」
「何いってるの、あんたもすぐ着られなくなるのよ、どうせ。
 勿体無いでしょ?あんた着てるそれだって、近所の子にあげるかもしれないんだから。
 綺麗に着て頂戴ね」

 ズボンのすそ上げのしるしに安全ピンを止め終わった合図に譲の背中をポンと押して、
 よし、と菜摘は声をかけた。
 ソファーの上でごろりとしながら将臣は笑う。

「譲なら大丈夫さ」
「……あんたと違ってね」

 むっとした将臣に菜摘は明るく目配せをした。
 譲は着慣れない詰襟に若干戸惑いながら感慨にふける。
 来週は小学校の卒業式。
 来月になったら、中学の入学式。
 今制服を直しているのは小学校の卒業式で着るためだった。
 私服で式に出る子もいるが、だいたい中学の制服で出席するから。
 私立の学校に受かった子が誇らしげにその制服を着ていたな、と
 去年の卒業式を思い出す。
 将臣と望美の卒業式。
 何がなにやらよくわからないまま式は終わって、
 実際にその意味を理解したのは四月の初め。
 小学校から二人の姿が消えて、自転車通学を始めた二人の姿に呆然とした時だ。
 桜の下でくるくるまわる望美。
 セーラー服を着た望美はまるで別人みたいで、
 学ランを来た将臣はひとつしか違わないなんて嘘みたいに大人びて。
 ランドセルを背負った自分がなんだかかっこ悪いと思った。
 身長が伸びて背負えなくなったせいもあったけれど、
 ランドセルを背負って登校しなくなった自分に母は何も言わなかった。

 国語、算数、理科、社会……二人の会話からこの単語が消えて。
 現国、古典、地学、生物、物理、数学、英語……
 部活、コモン、……もうよくわからない。
 会話がわからないのが悲しかったから、二人が一緒のとき、
 誘われてもいっしょにいなくなった。
 そもそも『部活』のせいで二人とも学校から帰ってくるのが遅くなって、
 家にいつもいない。
 ぼんやりゲームをしたり、本を読んだり……
 他の友達と遊ぶことが増えた。
 前はいつも三人でいっしょだったのに。

「こんにちは、おばさん〜!」
「あら望美ちゃん。いらっしゃい」

 いつものように玄関からではなく庭から来た望美にどきっとして、
 譲は長い袖をもてあました。
 そんな譲を横目に菜摘は望美に声をかける。

「望美ちゃん、どうお?
 譲も少し大人っぽくなったでしょう〜」
「うわぁ、譲くん詰襟似合うね!お兄さんって感じ!」

 まじまじといった様子で自分を見つめる望美に譲は少しむっとした。
 お兄さんって感じということは、本当はこどもっぽいのか。
 とたんに学ランの着心地が最悪になる。

「もう脱ぐ」
「何照れてんのよ、譲」
「ズボンのすそ上げするだけでしょ、もう終わったから」
「まあそうね。ああ、脱ぎっぱなしはよしてよ、皺になるから。
 ……あがってってね、望美ちゃん」
「おじゃましま〜す」

 一瞬詰襟に手をかけて脱ごうとした譲は手を止める。
 そんな譲につい、意地悪く将臣は声をかけてしまう。

「そこで脱げばいいじゃないか、譲。
 さっきだってそこで着てただろ」
「部屋で脱ぐ!」

 にやにやする将臣に、カッとなった譲は声を荒げて、
 走って居間を出ようとした。

「譲くん、また一緒だね」
「のぞみちゃ……」

 望美の声にピタリと譲の動きが止まった。
 譲は口の中で、声を出さずに一回練習して、躊躇いがちに言葉にした。

「そうですね……春日先輩」

 ぴくり、と将臣の眉があがる。
 一瞬何が起きたのかわからない、という一同を見回して譲はもう一度言った。

「何がおかしいんですか、先輩でしょう?」

 体を強張らせる譲の肩に、望美は手をかけようとして、
 渾身の力で振り払われる。
 望美は戸惑いながら、笑顔で

「のぞみちゃんでいいのに」
「だって、先輩、じゃない……ですか」

 将臣は大げさにため息をつきながら、ソファーごしに声をかける。

「俺をちっとも敬わないくせに、望美を先輩呼びかよ」
「兄さんは、兄さんだろ」
「昔はお兄ちゃんって付いてきたのによ」
「……いつの話だよ」
「学校では先輩かもしれないけど、
 うちではのぞみちゃんのままでいいんじゃない?」
「しめしが付かないから、いいんですよ。
 俺、着替えてきます」

 譲の『俺』発言に一同はまた驚く。
 ばたばたと譲は階段を上がっていった。

「譲が、俺だって」
「格好つけたい年頃なんだぜ、笑うなよ。かーさん」
「笑ってないわよ。
 こうやって大きくなっていくのねえ」
「俺らだって再来年は高校生になるんだぜ」
「……そうなのよねえ」

 またあの寂しそうな譲を見ることになるのか、と
 菜摘はため息をつく。
 誰が悪いわけでもない、たったひとつの歳の差。
 幼稚園の頃みたいに譲は泣いたりはしないけれど、
 泣いたりできない譲のほうが菜摘には切なかった。
 菜摘は望美を見る。

『まさかおんなじ女の子を好きになるなんてねえ……』

 何事もなかったように、にっこり笑う望美に苦笑しつつ、
 損な役回りな分譲をつい応援したくなるのだが、
 菜摘にはおやつを優遇してあげるくらいのことしか出来ない。

『さあて、どうなるのかしらねえ』

 そのおまけですらきっと譲は望美にあげてしまったりするんだろうな、
 と思いつつ、菜摘は三時のお茶の準備を始めた。


背景素材:空色地図

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