クリスマスに雪は降らない




  ー1ー


 瞼を開けば、そこは学校の渡廊下だった。
 あの日と同じように冷たい雨が降っていた。
 ……あの日に帰ってきたんだな。
 ほっとすると同時に、久々の詰襟に、少し息苦しさを感じ、襟に指を入れ広げてみた。
 あの日と違うのは。
 右手に繋がれた、暖かいてのひら。
 目線を下ろせば。貴方がいた。
 細かく、睫が震えているのは、涙を堪えているんだろう。

「帰って、来ましたね」
「……うん」

 目を閉じれば、最後に見送ってくれた、景時さんと朔の笑顔が浮かぶ。
 懐かしい京邸。
 長い間同じ時を過ごした仲間達の笑顔。
 そして、笑顔で行ってしまった兄さんの顔。

「……夢じゃ、なかったんだよね」
「ええ」
「譲くんは、覚えているよね」
「はい。覚えています。
 今こっちにいるほうが、まだ何だか夢みたいでいまいち実感がわきませんが」

 授業開始のチャイムが鳴った。
 ああ、そうだ休み時間だった。
 放課後、一緒に帰る約束をして俺たちはそれぞれの教室へ戻った。
 兄さんのことはどうなっているのだろう。
 それが気になっていても、放課後になるまで先輩を訪ねることが出来なかった。
 終礼が終わって、部活の仲間に今日は休む、と伝えてもらう。
 俺が部活を休むことにその仲間は驚いたけれど……今日は弓を射る気がしない。
 俺は二年生の教室へ急いだ。
 貴方は、ひとりで教室の机に座っていた。

「……先輩?」

 貴方は泣いていた。
 俺も嫌な予感がしていた。
 貴方の同級生は、俺のことを『有川弟』、と呼ぶ人が多かったのに。
 途中で会った人に貴方のことを尋ねたとき『有川くん』と呼んだのだ。
 有川将臣は、この世界に存在しないことになった。
 きっとあちらに残る、と決めたときに。
 名前と、記憶が残っていて……行方不明のような扱いのほうがよかったんだろうか。
 でも、俺たちにはどうすることもできない。
 兄さんが帰ってこないことを両親に、皆にうまく伝えることの難しさを考えれば、
 これでよかったのかと思うしかない。
 けれど、綺麗になくなってしまった、兄の居場所。
 消えてしまったその痕跡に寒気を覚える。

「将臣くんが、いなくなっちゃった」
「……そう、みたいですね」
「机も、ロッカーも、鞄も何もないの。みんなも覚えていない。
 将臣くんがどうしていないって先生とかにどうやって説明しようかなとか少し考えたのに。
 まさか、消えちゃうなんて……」

 俺は貴方の前の席に座った。
 かつて兄さんの席だった席。
 よく授業中に居眠りをして。日当たりが良すぎるんだよと悪態をついた窓際の席。
 この席には今、兄さんでない生徒が座っている。
 兄さんはよく寝ていたから、貴方は普通に黒板が見えたとよく言っていたのに。
 貴方の手が俺の手を捜していた。
 そう、感じた。
 すっと手を差し伸べれば貴方は俺の手を握って。

「……譲くんは、ここにいるよね」
「俺は、ここにいます。貴方のそばに」
「……忘れてないよね」
「俺は忘れません。あの旅のことも、兄さんのことも。
 ……兄さんと交わした約束も」

 必ず幸せにするよ。確かに俺は兄さんと約束をした。
 ちゃんと覚えていますよ。あの時恥ずかしそうに笑った貴方も。
 ……そんな貴方を見て寂しそうに笑った兄さんの瞳が寂しげに一瞬だけ翳ったことも。
 兄さんは笑って、何かを思い切るように俺たちに背を向けた。
 その後の兄さんはいつもの兄さんだった。
 最後まで俺はあの人にかなわない、と思う。
 貴方と別れるその時に、あんな風に潔く背中を向けることは俺には出来ないだろうから。
 今思えば背中ばかり見つめてきた気がする。ほんの小さな頃からあの人は、兄だった。
 決して越えられないと見つめた背中。
 ……越えられないままだったな。でも、貴方を俺に託してくれた兄の気持ちには応えたい。
 兄さんのようにはきっといかないけれど、精一杯、俺に出来るすべてで貴方を幸せにする。必ず。
 今は泣いていい。明日も。
 すべてを思い出に変えて、貴方が笑顔に戻るように、俺は貴方の傍にいるから。

「……うん。
 でも、寂しいね。将臣くんは、もういないんだ」
「……俺だけじゃ、だめですか」
「譲くんがいてくれれば、いいよ。
 ……でも」
「ええ、俺も寂しいです。
 不思議ですね。ああやってさよならと言ったのに。こうして見てまわると実感が湧く。
 誰も、覚えていない。何処にも痕跡が残っていない。
 消えてしまうのは残酷ですね。きっと両親も覚えていないんでしょう。
 でも、俺は覚えています。貴方と、三人で育ったことを」
「うん、わたしも絶対に忘れないよ」
「……少し、妬けますね」
「バカ」

 本当に少しだけ、妬ける。
 貴方と兄さんだけが共有していた何か、は永遠に二人だけのものになったのだから。
 兄さんはきっとそれを忘れたりしないだろう。
 あちらでひとりで生きていく兄さんのきっと心の支えになるんだろう。
 でも、これからは……。
 貴方は窓から見える夕日の色に染まった海を眺めて、つぶいた。
 いつの間にか雨が上がって雲間から陽がさしていた。

「もし、わたしがあの時。一番最初に諦めていたら。
 ひとりでこっちに帰ってきたときに、旅をやめてしまっていたら。
 今、ここに譲くんもいなかったんだね」
「もし、貴方が俺が死んだ時点で、……逆鱗が砕けてしまったと、諦めていたら。
 今ここに俺と貴方が一緒にいることは無かった」

 貴方がしてきた長い長い旅。
 俺はその全てを知ることは無い。知りたいと望んでも知ることは、出来ない。
 同じ道筋を辿ってきたけれど、同じものを見つめることは出来なかった。
 でも一緒に帰ることを、貴方は望んでくれた。
 その運命を選んでくれた。
 だから、これからは。
 二人で一緒に歩いていく。
 男と、女で。年の差もあって。身長の高さが違って。
 同じようになんて見つめることはきっと出来ない。けれど。
 同じものを見つめていきたいと願い、努力することは出来る。
 同じ歩幅で歩いていくことは、きっと出来る。

「いつまでも、覚えていましょう。
 二人が持つ記憶はきっと違うけれど、思い出したことは二人で話しましょう。
 忘れてしまわないように。
 だから、先輩、俺に話したいと思ったら何でも話してください。
 たとえ、その記憶が俺に無くても。貴方の話を聞きたい。
 そして覚えていたいんです」
「……うん」

 帰りましょう、と声をかければ貴方は席をたち。
 二人で校舎の中を歩いた。
 下駄箱を覗けば……やっぱり兄さんの場所は無かった。
 家に帰れば、どういうことになっているんだろう。俺はため息をついた。
 両親は覚えていない。
 きっと全ての痕跡は綺麗に消えてしまっている。
 何だかんだ言っても俺は結構兄さんを頼りにしていたんだな。
 長男なんだから、両親は任せても大丈夫だろう、とか何とか。
 俺は家を出ることばかりを考えていたような気がする。
 仲がよかった先輩と、兄さんを見つめているのが辛くて。
 二人の関係がいつ恋人のそれに変わるのかと息をつめて見つめていた。
 俺は見ているだけで、何も出来なかった。
 でも、今貴方はここにいて。俺は貴方のとなりにいる。
 駅から眺める江ノ島は、あの世界と似ていた。
 江ノ電に乗り込んで、黙ってしまった俺を貴方は静かに見つめてくれていた。
 ああ、俺はひとりじゃないんだ。そう気付いて、ほっとした。
 もし、これが俺一人だったら。
 きっと辛いだろう。耐え切れないことは、ないのかもしれないが。
 俺は少し笑ってみた。貴方は笑い返してくれた。
 極楽寺の駅で降り、いつものように家路を辿る。
 久々に見る、なつかしい風景。
 先輩も感慨深そうに見つめていた。
 年々イルミネーションに凝る家があった。今年はサンタがそりに乗って動いている。
 そうだ、もうクリスマスだった。
 貴方と、兄さんがクリスマスの買出しにいく話をしていた気がする。

「譲くん、……クリスマスパーティの買出し、つきあってね」

 今年からはそれは俺の役目になるのか。
 俺が料理担当で、貴方達は飾りつけ、プレゼント担当だった。

「先輩も買出し、付き合ってくださいね。
 貴方の好きなものばかり、作りますから」
「……うん」

 貴方は俺の腕に捕まって微笑んだ。
 貴方と家の前で別れようとしたら、貴方は俺についてきた。
 ……ひとりで見るのは正直しんどいと思っていたから。
 貴方の心遣いが嬉しかった。
 息を吸い込み、鍵を廻す。

「……ただいま」

 なつかしい玄関の匂い。誰もいない家に俺の声は吸い込まれていった。
 久々に帰ってきた、俺の家。どこかよそよそしさを感じるその空気に一瞬のまれそうになる。
 俺はどれだけ京邸に馴染んでいたのかと苦笑いした。
 おじゃまします、といつものように言った貴方も同じように感じていたのか、
 いつものような元気の良さが足りなかった。
 靴箱を開ければ明らかに数が少なくなっていた。
 貴方とふたりで、兄の痕跡を確かめた。……ひとつでも消し忘れがあったらいい、そう願いながら。
 けれど綺麗に最初から何もなかったように、消えていた。
 疲れきった俺たちは、とりあえず着替えてお茶にしよう、そういう話になって。
 貴方は一旦家に帰った。
 俺は自分の部屋のドアを開けた。……物置になっている。
 兄の部屋を開ければ俺のものが納まっていた。
 向かいの部屋を眺めれば、貴方の部屋だ。
 無防備に着替えをしている貴方が目の端にちらり、と映って思わず目をそらした。
 手早く着替えて、下に降り、気持ちを静めながらお湯を沸かす。
 何故、貴方はあんなに無防備なんだろう。
 見えていることを、知らないのか。
 そのイライラをぐらぐらと沸いたお湯と共にティーポットに注げば、
 茶葉がじゅっと言わんばかりの勢いで舞い上がった。
 少しそれで気が済み、茶菓子を探す。
 確か……焼いたばかりの、パウンドケーキが。…………あった。
 ……確かに焼いたばかりだったはずなのだが。
 感覚的には一年前に焼いたケーキであることに苦笑いする。
 一応確かめておこう、と思って薄く切って口に入れたとき、

「あっ。譲くん先に食べるなんてずるい!」
「先輩。早かったですね。
 ……これ、確か昨日焼いたはずなんですけど。
 俺にとっては一年前くらいに焼いたケーキなんですよ。
 食べれるのかなあとちょっと思って。確かめてみたんです。
 ……大丈夫そうでしたよ。当たり前なんですが」
「……そっか、そうだよね」

 久々に、譲くんのケーキだ。
 貴方は喜んでくれたので。
 ああ、貴方のその顔が見たくていつもこうやって焼いていたんだな、と思い出す。
 貴方のぶんと、俺の分。そしてもう一切れ。

「あれ?それは?」
「……ああ、仏壇にあげてこようかと思ったんです。
 一応帰ってきたので、報告しようかなと」
「菫おばあちゃんのぶん?
 わたしもお線香あげていい?」
「貴方なら、祖母も喜びます。祖母は、貴方が大好きだったんですから」

 そろそろと和室へケーキと暖かい紅茶を運ぶ。
 仏壇には穏やかな祖母の遺影。それに並ぶようにしてあまり覚えていない祖父の遺影。
 祖母はあちらの生まれだったと聞いた。
 二人がこちらで出会ったから俺たちが生まれて、貴方と出会えた。
 きっと祖母には祖母の物語があったのだろう。
 ろうそくに火をつけて、俺が二本、貴方が二本線香をつけた。
 白い煙が細く昇っていった。
 手を合わせて無事に帰ってきた報告をして、紅茶が冷めないうちに、居間に戻った。

「先輩の二本の線香は、先輩と兄さんのぶんですよね?」
「うん。譲くんは?」
「ああ、俺の分とあちらで出会った星の一族のぶんです。
 菫姫のこと心配してましたからね。
 宝玉も返してきたことだし報告したほうがいいだろうと思ったんです」
「おばあちゃんは、将臣くんのこと覚えているよね」
「……きっと、覚えていると思いますよ」
「そうだよね」

 微笑んだ貴方に、俺はあのことを告げるか迷う。
 けれど、黙っていていつか気付いた貴方に怒られるほうが嫌だ、そう思った。

「……先輩、あの、着替える時は、その、
 カーテンを閉めたほうがいいですよ。俺の部屋から見えるんです」
「えっ、何で今まで言ってくれなかったの?」
「違うんです。その、俺の部屋は、前の兄さんの部屋で。
 ……だから兄さんが黙ってたんですよ。俺のせいじゃないです」
「……将臣くんのエッチ」

 兄さんの名誉の為には黙っていたほうがよかったんだろうか。
 でも俺は、貴方の信頼を勝ち取らなければならない。
 ……これからの為に。

「譲くん、クリスマスの買出しなんだけど。23日行こう。大丈夫?」
「その日なら部活もないですし、いいですよ」
「じゃ、23日ね」

 はい、と返事をしかけて気付く。
 ……これってデート、じゃないのか。
 貴方と二人で出かけたことは何度かあるけれど。
 それと同じなんだろうか。それとも、何か違うんだろうか。

「あのう」
「23日じゃだめ?」
「……いや、これってデートなのかなと思って」

 貴方はきょとん、とした顔で俺を見つめた。
 そんなこと意識していなかったらしい。
 貴方は少し思案する顔をして、笑って言ってくれた。

「……そうなるのかな」
「そうですか」

 貴方は少し照れて笑った。
 俺の中に少しずつ、暖かい何かが満ちていく。
 こうやって二人で少しずつ、歩き出していければいい。
 そう願って。


背景画像:空に咲く花

お気に召していただけたらぽちっとして頂けると幸いです