三叉路
「のぞみちゃん、どうしてそんなに自転車のれんしゅうしてるの?」
譲は望美に訪ねた。
昨日出来た傷の絆創膏が痛々しい。
望美は難しそうな顔をした。
「どうせゆずるがほじょりんとれたから悔しかったんだろー」
ニヤリと笑って将臣は望美の痛いところをつく。
譲の補助輪がとれたのは先週のこと。
そうか、という表情を浮かべた譲に望美は悔しそうな顔をした。
「だってふたりでどんどん走ってっちゃうのヤなんだもん」
ふてくされてしまった望美に、将臣はこっそり耳打ちする。
「ゆずるのヤツかくれてたくさん練習してたんだぜ」
「!!」
「……お兄ちゃん、ないしょって言ったのに、ひどいよ」
譲はカーッと耳まで真っ赤になる。
望美と将臣に隠れてこっそり練習したのだ。祖母に見守られながら裏庭で。
将臣に出来て自分に出来ないのが悔しくて。
将臣にできることは自分も出来るようになりたくて。
たくさん転んであざを作ったけれど乗れるようになった。
何でもするりとこなせてしまう将臣とは違って譲は何事も努力が必要だったけれど。
まねっこ!!と何度からかわれても、兄に出来ることはなんでもやりたがった。
でないと、置いていかれてしまうから。
「ゆずるくんもがんばったんだぁ」
「うん。
……だからのぞみちゃんもがんばればできるよ。のぞみちゃんなんだってできるもん」
「できるかな」
「のぞみならなんでもできるよ。できないふりすんな。めんどくせーやつ」
べえっと舌を出した将臣を望美はばしっと叩いた。
「いってえな!」
「まさおみくんのいじわる!」
「……れんしゅうしないの?」
望美の自転車を立たせたまま待ちぼうけの譲が途方にくれた声を出したので、
ごめんね、と二人は笑った。
−3−
最後に好きでしたと言葉にしたけれど、先輩には聞こえていただろうか。
聞こえていなかったとしても言葉を声に外に出したことで何かから開放された気がした。
聞こえていても、いなくても。届かない思いに変わりはない。
聞こえていなかったのならそれでいい。悩んだりして欲しくないから。
聞こえていたとしても、きっとあの人はただの好きと誤解してしまうのだろうか。
それでもいい。今はこんなに好きでもいつか、そういう好きに昇華しなければいけないから。
泣かせてしまった。でも泣いてくれてイヤな気はしなかった。
笑顔でさようなら、なんて出来るほど俺は器用じゃないから。
兄さんみたいに引き際まで鮮やか、なんて出来ない。
思い出に残る先輩の面影は笑顔に彩られている。
最後の泣き顔は初めて俺のために流してくれた、涙。
その涙をぬぐってくれる存在がもう、先輩にはあるのだから。
もう、充分だ。
そんな考えにふけっているうちに光の道の終わりが見えてきた。
帰ってきた。
……帰れたけれど、きっとそれは譲の知らない世界。
あの二人がいない、世界。
「おい、有川」
渡廊下で一瞬ぼーっとしてしまった譲にクラスメイトが話しかける。
譲は一瞬混乱した頭を振り、自分を立て直した。
帰ってきた。現実に。
目の前にいたはずのあの二人の姿は……当然だったけれどなかった。
どういうことになっているのだろう。
あの二人の存在はいったいどうなってしまったのだろう。
譲はクラスメイトに二年の教室に行くと告げ、走り出した。
行方不明だということになったら大騒ぎだ。最後に会ったのは自分なのだ。
何と説明すればよいのだろう。両方の親に、学校に、警察に、世間に何と言えば影響が少ない?
そんなことを考えながら二年の教室につく。
望美と将臣の教室に入り、望美の親友に声をかけた。
「えっと、有川君だよね?どうしたの?」
譲はその一言で全てを悟った。
望美の友人は譲を『有川弟』と呼び、そのクラスに顔を出すときは必ず望美に用事があるのだと知っていた。
つまり、あの二人は、いないのだ。
この世界に。
わかっていても息が止まりそうになる。
顔色を失った譲に大丈夫?と彼女が声をかけたが譲には聞こえていなかった。
ふらふらと教室を出て、自分の教室に戻る。
早退も考えたけれど、何とか踏みとどまる。現実に。
何とか終礼までをやり過ごし、部活を休んで帰ることにした。
今日は、弓に触れる気がしなかったから。『久々に』電車に乗る。
家に帰ったら何が待っているんだろう。
そう考えるだけで冷や汗が出る。
でも戻ってきたのは自分だ。こうなることの覚悟もしていたつもりだった。
しかし、想像よりも実際に目にするほうがショックは大きい。
『久々に』目にする懐かしい街並みを見ながら、家への道を歩く。
足が重い。
帰って休みたいと思うのと同時に、帰りたくないと悲鳴を上げる自分自身をなだめながら、
一歩一歩踏みしめて進む。
夕闇の中、ところどころクリスマスのデコレーションを施された家々を眺める。
そういえば、先輩今年のクリスマスの飾りつけも張り切ってたな。
もし皆で帰ってきたらどんなパーティになったんだろうか。
自分は何に腕を振るったんだろうか。
……この考えはまずい、譲は頭をぶんぶんと振って自分を立て直す。
そして有川家と春日家の家の前についた。
「売地」
譲は呆然とその草原を見つめた。
ぼうぼうと草が繁り、春日家の面影もない。風化したような不動産の立て札。
まるで最初からそこには最初から家など建っていなかったようなその荒れように呆然とする。
これは……どういうことなのか。
さらに気が重くなり、もう何も見たくないという気分になりながら、
鍵を使って戸をあけた。
「ただいま」
家はしん、と静まり返っていた。まだ父も母ももどっていないらしい。
靴を脱いで、ブラシをかけて靴箱にしまう。
靴が少ないな。
はぁ、とため息をつく。
どうせ全て受け入れて、慣れなければならないのだ。
洗面台で手を洗って、ひとくち水を飲む。
おいしいとは言えない水道水の味。
鏡に向かって両手で顔を叩き、気合を入れなおして二階へあがった。
自分の部屋を開けたらそこは物置になっていた。
まさかと思って、将臣の部屋を開けたら自分の部屋のものが収まっている。
譲は明らかに冊数が少なくなっているアルバムを開けた。
「そういうことか」
ページを捲っても、捲っても、捲ってもあの二人はいない。
わかっていてもつい二人の姿を探してしまう。
結局全てのページを捲っても二人の姿はなかった。
行方不明とか騒がれて、二人は駆け落ちとか言われて責められるのと、
全ての痕跡が消えてしまうのと、どちらが良かったのだろう。
わからない。
でも結局どっちにしたって一緒なのだ。
あの二人は帰ってこない。時空の向こう側へ消えてしまった。
帰って来るどころか最初からいないことになってしまった。
もう、会えない。
自分の中には確かにある思い出は現実にはなかったことになってしまった。
いつか自分は夢を見たとでも思うようになるのだろうか。
何一つ存在を裏付ける材料が掻き消えて、誰に尋ねても二人のことを覚えていなくて。
浦島太郎とはこういう気分だったのだろうか。
帰ってきたはずなのに。帰ってこれたという気がしない。
泣きたいのに涙が出てこない。泣いたら少しはスッキリするんだろうか。
頑固な自分に若干嫌気がさしながら立ち上がり、制服を着替える。
久々にコーヒーでも飲んだらおちつくだろうか。
少なくとも、両親を心配させるのはよくない。
今はこの家の子供は自分しかいないのだ。
両親を頼む、と言った将臣の顔を思い出す。兄との最後の約束だからたがえるわけにはいかない。
兄の言葉が自分の支えになるなんて情けないなと苦笑いする。
結局兄はお人よしの世話焼きなのだ。最後まで平家と一緒になんて付き合いが良すぎだ。
でも結局皆自分の道を自分で選んだのだ。
歩き続けなければならない。力の続く限り。
あの世で会いましょうとかよく言うけど、俺たちの場合会えるのかなと言っていたのは兄だった。
最後に見送りのとき、ポツリとそう言ったのだった。
今生の別れとか良く言うけどさ、あっちでは会えるのかな?と。
それも今となってはよくわからない。でも感謝すべきなのだ出会えたことに。
あの人の弟として生まれた自分に、あの人と幼馴染として出会えた自分に。
八葉と、神子として確かに生まれた絆に。
他の人に何も残らなかったとしても、自分の中には確かにあるのだから。
愛おしい思い出が。
誰も信じてくれなくても、誰とも分かち合うことが出来なくても。
丁寧にコーヒーを入れよう。
祖母の好きなコーヒーを。祖母の分も。
あちらからわたってきた祖母に、どんな思いで時空をこえたのか今こそ聞いてみたかった。
「ただいま帰りました。おばあちゃん」
線香を四本火をつける。
数が良くないなと思いつつ、自分の分、将臣の分、望美の分、そしてあちらで出会えた星の一族の分。
白い煙があがった。
遺影を見つめながら譲はひとつひとつ報告する。
「おばあちゃんのふるさとに行って、親戚にあってきたよ。
おばあちゃんの実家ってどこ?って昔聞いたら遠いところって……
そうだよな。そうとしか言えないよな。
一族の人に宝玉はお返ししてきたよ」
はかなく消えていく線香の煙を目で追いける。
「俺、ちゃんとやれたかな」
望美ちゃんをふたりで護りなさい。
よく菫は口にした。あの世界で起こることを菫は知っていたのだろうか。
そういえば護れと二人には言ったけれど、菫は望美にお嫁に来てねとは言わなかった。一度も。
譲は苦笑いする。
「八葉の役目はちゃんと果たしたと思う。
兄さんは天の青龍だった。兄さんはあっちに残ったよ。
先輩は……神子の務めをちゃんと果たして。あっちで幸せにやってると思う」
おばあちゃん。
譲は心の中で問いかける。
おばあちゃんは兄さんと先輩のこと忘れてないよね?
おばあちゃんは先輩に会いたかったから時空を越えたんだよね?
おばあちゃんだけでもいいから覚えてるよって言ってくれないか。
そう思うのは俺の感傷なんだろうか。
仏壇の前から立ち上がろうと、マッチを引き出しに戻す。
引き出しの中にあけたときに何か見えた。
マッチを取り出した時には確かに無かった物が見えて手に取ると……それは写真だった。
これはおばあちゃんが撮ってくれたあの日の。
譲ははっきりと覚えていた。
望美が初めて一人で自転車に乗れたあの日に記念に撮った写真だった。
ぽたり。
流せなかった涙が零れた。
兄と別れたとき、望美と別れたとき、二人を失ったことを悟った時流したかった涙。
ぽたり、ぽたり。
遺影の祖母は内緒よ?と笑いかけてくれたような気がした。