三叉路






「やだっ、まだ離さないで!」

 望美は金切り声をあげた。
 望美のこぐ自転車は荷台を将臣に押さえられながら走る。
 その横を譲はこわごわ並走した。
 蛇行する自転車はいつ自分のほうへぶつかるかわからない。
 でも倒れる前に何とかできたらと、ちらちら望美を伺う。
 必死の形相の望美。話しかけたら倒れてしまうかもしれない。
 補助輪を外すのはまだ早かったか?
 お転婆娘の苦戦を望美の父親が苦笑いをしながら見守っていた。

「のぞみちゃん、もっとしっかりこがないと!」
「怖いんだもん!」
「早くこいだほうが転ばないんだぜ!」
「わかってる!……きゃあっ!!」

 キキッ!
 ブレーキ音をたてて自転車が止まる。
 ブレーキをかけすぎてハンドルが横にぐっと折れて、自転車は横転する。
 止まってから倒れたので望美に怪我はないようだった。

「もう!難しいよ!!」

 望美が癇癪を起こす。
 ギリギリまで支えていた将臣は疲れた、と座り込んだ。
 もう一日こんな様子なのだ。
 譲は自転車をきっちりスタンドで立たせると、

「補助輪……もう一回つけてもらう?」

 ちらり、と望美の父親を伺った。
 父親は笑ったまま何も言わない。
 望美が言い出すまで見守るつもりなのだ。
 望美は癇癪を起こして泣き出した。

「のぞみちゃん。また明日にしようよ。
 明日になったら乗れるかもしれないよ?」
「もう疲れたからおれ、いちぬーけたっと!
 のぞみのへたっぴー」
「やだ!ぜったいのれるようになるんだもん!」

 望美の目からぼろぼろと悔し涙がこぼれてくる。
 あとから、あとから。
 将臣と譲も望美の涙が苦手だった。
 いつもぴかぴかの笑顔でいて欲しいから。
 結局は望美のいいように、となってしまうのだ。
 ぼりぼりと頭をかきながら将臣は仕方なさそうに言った。

「じゃあ、もう少しだけつきあってやるよ」
「もうちょっとがんばろう、のぞみちゃん」
「うん」

 きゅっと唇を引き結んで望美はもう一度自転車にまたがる。
 将臣と譲はどうしたら望美がうまく乗れるか考える。
 もし転んだらと怖がってあんまり強く押さなかったけれど、もしかしたら勢いをつけたほうが
 うまくいくかもしれない。
 さっき転んだ望美をささえて将臣はへとへとだった。
 譲じゃ心もとないけれど。倒れたら将臣がなんとかするから。
 ふたりならなんとかなるかな。

「のぞみちゃん、ぼくが押すから、おもいっきりこいで!」
「いいの?」
「ちょっと強めに押すからな、びびんなよ、のぞみ!」
「せーの!」

 スタートダッシュはやっぱり将臣のようにはいかなくて、
 必死で譲は押したけれどうまく走り出せない。
 見かねた将臣がぐっと脇からサドルを掴んで走り出した。
 自転車は勢いをつけて走り出す。勢いがついたところで将臣が手を離した。
 譲は必死で自転車を押す。
 望美は最初の勢いに少しおされたけれど、前を向いてペダルをぐいっとこいだ。
 スピードに乗って自転車は走り出した。
 将臣は譲に目配せする。譲は押していた力を少しずつ緩めて、徐々に手を離した。
 望美に気付かれないように。
 そして、完全に手を、離す。







  −1ー


 壇ノ浦での決戦で平家と源氏の長かった戦は終わりを迎えた。
 現代に残る『日本史』とは異なり、平家は滅びず、
 恩赦によって南の島へ流れていくことになった。
 将臣が何か自分の知らない事情で背負っているものがあることは感じていた。
 しかし、平家一門の人々の命運をだったなんて。
 譲が思っていたよりもずっと重いものを将臣は背負っていた。
 敵方、だったなんてどんなに辛かっただろう。
 いつ、その事実を知ったのだろうか。
 自分がそうなった時兄のように立ち振る舞える自信はなかった。
 将臣だって望美が大切なのは変わらない。
 でも望美だけが大切なわけでもない。
 譲には複数のものを一緒に大切に出来る器用さも度量も持ち合わせてはいなかった。
 いくつかのもの、ではないただひとつのものしか守れない。
 でも、その役目も終わりつつある。
 あの人を守るという使命が明確になって幸せだった。
 そんな日ももう終わりを告げる。

「譲、お前どうするつもりなんだ?」

 出航の慌しい準備の中、将臣は譲に声をかけた。
 最終決戦が終わり、望美の行き先が決まってから譲はどこかぼんやりとしていた。
 無理もない、と思いつつこの猫の手も借りたい残務処理のさなか。
 実務に優れた弟の手を借りないというのは大いなる損失だ。
 実戦よりもこういう処理とか、手続きとかそういったものに譲は絶大な力を発揮する。
 将臣に出来ないことではない、しかし向き不向きがあるのなら、譲のほうがむいていた。
 どうせぼんやりしていても常人以上の力を発揮する。
 むしろ何も考えなくていい仕事を与えて、疲労を感じたりしたほうが、
 ぼんやりして何もしない時間を過ごすよりずっと有意義ってもんだろう。
 ……もうきっと二度と会えなくなる弟の顔を少しでも胸に刻んでおこうという
 腹積もりも無きにしも非ずだったが。

「おい、聞いてんのか。譲。
 お前これからどうするつもりなんだ」
「……どうって、帰るよ」
「どこに」

 ああ、目の焦点があってない。将臣は頭を抱えたくなる。
 考えたくないのはわかる。
 望美が他の男とこっちで生きていくことを選んだのだから。
 失恋と喪失感で頭がぐるぐるになっているんだろう。
 譲から望美をとりあげたら今のところは何も残らないんだろうからな。
 この望美バカめ。
 望美も馬鹿だ。恋に浮かれて譲はほったらかし。
 浮かれるのはいい。誰を選ぶのも自由だ。
 あいつめ、新しい生活に向けての考えでいっぱいで残されるもののことを
 一切考えちゃいねえ。……まあ新婚さんってのはそういうものかもしんねえが。
 俺が譲に『両親を頼む』と言えばすむのとお前は違うんだぞ。

「だからお前はどこに帰るんだよ」
「……家に帰るよ」
「どこの」
「……鎌倉の」
「いつの」
「もとの世界の」
「帰れんのか」

 多分、と言って譲は口をつぐんだ。
 こうなるともう簡単には喋らない。譲は穏やかな外見をしていながら時に驚くほど強情だった。
 将臣はため息をつく。
 出来るだけ心配事は減らしておきたいんだよ。もう、会えないんだからな。
 同じ世界に生きる望美とは、会えないことはないかもしれないが、
 時空を隔てる譲は、今生の別れということになる。
 心配はしていない。けれど、心配しないことはない。

「大丈夫なのか」

 返事は返ってこない。
 将臣はイラついて、ガツンと拳骨を見舞う。

「お前ひとりになるんだぞ。ひとりで帰るんだぞ。
 わかってんのかよ」
「今までだって俺一人だったじゃないか。別に大丈夫だよ」
「何が大丈夫だ。そんなぼんやりしやがって」
「ぼんやりしてたって、別に矢が飛んでくるわけじゃないし」
「車に突っ込まれたってしらねえぞ」
「……まぁ、そういうことはあるかもしれないけど」

 はた、と気付いたような譲の顔に、将臣は苦笑する。
 こいつ本気でぼけてやがる。
 自分がこっちに残る覚悟をしたのは、三年以上の月日を隔ててあの『現代』が
 遠くに霞んでいたからというのもあるな、と将臣は思う。
 勿論平家の皆がちゃんと安住の地へ流れることが出来るのかというのも重要だったが、
 正直なところ将臣は現代に帰ってもきちんと生活できるのか自信がなかった。
 こちらで過ごした月日がどれだけ自分を変えてしまったのかという自覚もある。
 今更高校生に戻って生活出来るのかといえば否だった。
 戻ったとして、十七歳の自分に戻れたとして。
 この三年以上の月日はどうなってしまうのだろうか。
 大切な時間。それが失われてしまうのだろうか。
 譲は戻れる。譲は現代に戻ってもきっときちんと暮らしていける。
 こちらの現実に馴染んでいても、譲の中には現代人の常識がしっかりと残っているから。
 望美は……まあ大丈夫だろう。
 あいつには誰もが手を差し伸べたくなるようななんていうかもう才能に近い何かがある。
 困っていたら必ず誰かが手を差し伸べてくれるような運のよさとしか言いようのない何か。
 まあ頼もしい旦那もついてることだし。心配はまあ……野暮ってもんだろう。
 浮かれた二人がふわふわ歩いていくのを遠めに眺めつつ、困った弟の頭をわしわしと掴む。
 今お前、目をそらしただろう。あの二人から。
 ぶんぶん望美のやつ手をふってやがったのに。応えてやれないお前の気持ちは、まあわかるがな。

「……重症だな」
「うるさいな」
「望美手を振ってたぞ」
「俺にじゃないかもしれないだろ」
「間違いなく俺たちに向かって振ってたよ。気にしてなかったみたいだけどな。
 あいつ頭今沸いてるからな」

 いつもの譲であれば望美に対してその発言はつっかかってくるところだ。
 むっつりと黙ったままってことは、まあ譲も多少なりともそう思ってるってことだな。

「……お前さ、ちゃんと望美にさよならって言えんのか」
「まだ、考えてる途中だよ」
「黙って消えるつもりじゃないだろうな」

 図星だったのか譲の様子がおかしくなる。

「いきなり消えたら心配するだろが」
「……置手紙くらいはしてくつもりだよ。  兄さんは言えんのか、『お幸せに』って」
「まあ、普通言うだろうな」
「『幸せになってね』って言われて辛くないか」
「あいつそれ、言いそう。
 まああんまりいい気はしねえな。正直なところ」
「先輩が幸せになって欲しい。それは本当だけど、
 でも、まだそれを見たくないんだ。もう仕方ないってわかってるけど」
「見たらカンペキに諦められて、案外スッキリするかもしれないぜ」

 部下に呼ばれた将臣は『オウケイ』と応え、
 バン、と譲の背中を叩いて部下のもとへ歩いていった。

「……スッキリ、か」

 ひりひりする背中を押さえ、譲は呟いた。
 将臣の後姿を見送る。
 いつも背中ばかりみていた気がする。今なら肩を並べて歩けるんだろうか。
 まだ、無理かな。
 兄さんと肩を並べて歩くことも、先輩と腕を組んで歩くことも出来なかった。
 自分の目標ってそれだったのかもしれない、と思う。
 将臣と並んで歩ける実力を手に入れたとき、望美に振り向いてもらえる……
 そんな気が漠然としていた。
 一緒に行けば比べられるから別の道を選んできたつもりだった。
 けれど、今まで三人でひとつの道を歩いてきたのかもしれない。
 勿論それぞれの道を歩いてきたのだろうけれど、同じ方角で同じ向きを同じ速さで
 あの二人に引っ張って貰いながら歩いてきた。
 もう少し先を歩いてくれていたあの二人とは別の道をいく。
 三人が三人の、それぞれの道を。
 もう少しそれは先の話だと思っていたのに。
 将臣は明日出航する。
 それは永遠の別れ、だった。全然実感がわかない。もう会えないなんて。
 会いたいなんてそう思うことはないけど、もう会えないのが不思議だった。
 どうやって両親に説明したらいい。兄とはもう会えないと。
 まったく譲自身が実感がわかないのに。
 どうやって。


背景画像:空色地図

お気に召していただけたらぽちっとして頂けると幸いです