Over easy




  −1−


 家に帰ってくるとあの窓をまず見てしまう。明かりがついているとほっとして、
 譲くんただいまと呟く。
 疲れきって電話もメールもする気力もなくて、お風呂に入るとすぐに力尽きて寝てしまうけど。
 あの窓の向こうに譲くんがいる。そう思えるだけで心が温かくなるような、そんな感じ。
 夜明かりがついているのは勉強を頑張っているからだろう。
 進路のことは聞いていないけれど、譲くんのことだからきっとちゃんと考えている。
 話したくなったら話してくれるだろうし、譲くんのことは応援したい。
 譲くんのお陰で苦手だった数学を何とか克服して今の学校に入れた。
 わたしは勉強を教えることは出来ないし、差し入れとか夜食を作ったりも出来ない。
 わたしに何か出来るのかな、と考えてみても毎日がいっぱいいっぱいで。
 自分のことだけで精一杯だ。帰ってくるとお風呂に入って寝る以上のことが何も出来ない。
 何もまだ問題は起こっていないのに、このまま行ってはいけないと何だか嫌な予感がする。
 なんとかしたいのに、うまくいかない。でもどうしたらいいんだろう。
 そんなことを考えながらATMを出てバイト先まで歩いていたらかばんの中の携帯が震えた。
 譲くんからの返信だ。

『考えておきます』

 最近譲くんがそっけない。
 じっと見つめてきたと思えば、ふいに目を逸らしたりする。
 何か言いたいことがあると顔に書いてあるのに、
 いざ口に出そうとして何度も止めているのはわかっていた。
 だいたい何度か促すとしぶしぶ言ってくれる場合が多いのに、今回は特に頑固な気がする。
 単純に会える時間が減っているせいなのかもしれないけど、何故なのか良くわからない。
 でも明後日は譲くんの誕生日。
 日曜日は基本バイトが入っている日が多いけれど、譲くんの誕生日だけは休みを確保した。
 久々に丸一日一緒にいられるな。
 一日一緒にいられたら、譲くんの欲しいものも聞けるかな。
 譲くんの喜ぶ顔が見たい。
 ぼんやりとそんなことを考えながら歩いていたらメールが来た。
 譲くんかな、と思って確認したら日置くんからだった。
 明日の夜のバイトが終わったら新人歓迎会をしてくれることになっている。
 ボウリングの後に飲み会になったと書いてある。
 携帯で時間を確認したら、もうすぐでバイトの時間だったから早足で職場へ急いだ。





「えっ、春日んち門限あるの!?」
「そうなんです。すみません」

 驚いた顔の先輩たちに申し訳ないと謝った。本当はうちには門限なんてない。
 どうしても今日中に帰りたいと日置くんに相談したら、門限あるって言っとけばと
 入れ知恵をしてくれた。
 門限はないけど、確かに帰りが遅すぎるといい顔はされないのだから嘘でもない。
 とりあえず1ゲームやったら帰ってもいいでしょうか、と言えば
 仕方ないねと言ってくれた。
 帰りはとりあえず日置くんが送ってくれることになっている。
 何だかいつのまにかバイト先ではわたしと日置くんが付き合っているような空気になっていて
 ちょっと居心地が悪い。
 確かにへまをしがちなわたしに日置くんは助けてくれるし、同じ学校だし家の方向が近いから
 よく送って貰っているし実際に良い人だし気が合う気もするし嫌いじゃない。
 でも好きな人は別にいる。
 最初にはっきり彼氏がいますって言えば良かったんだろうか。
 でも何か気恥ずかしくて言えないままでいたらそんなことになってしまった。
 バイト先の人たちはわりとみんなさっぱりしていて好きだけど、
 そうやって勝手に結び付けられるのはちょっと困る。
 今日もしっかり同じチームに入れられて、仲良いねなんて言われて。あいまいに笑うしかない。
 でも久々のボウリングは楽しかった。譲くんと来てみたい。
 意外と譲くんは負けず嫌いだからむきになって面白いかもしれない。
 最初に先に帰るなんて言って場を少し気まずくしてしまったけれど、
 最後にはストライクを決めた人とハイタッチなんかして盛り上がって気持ちよく帰ることができた。
 いつの間にかに馴染んでしまった日置くんの車の助手席に乗り込んで、
 色んな話をしているうちに家の前につく。
 23時45分。良かった、間に合った。
 車を降りて、見上げれば譲くんの部屋の電気は消えていた。

「今日もありがとう」
「間に合って良かったな。
 なあ、今度休みが合う日に遊びに行かないか?」
「ええー?」
「いつも送ってやってる恩も忘れてそんなことを言うわけ?
 今日もこれからあっちに戻ってフォローすんの俺よ?
 本当に薄情だな〜。
 たまには、どっか行こうよ」
「うーん」
「じゃあ今日の借りを返すってことで」
「えっ、もう仕方ないなぁ…………わかった」
「やった」

 日置くんがわたしの手を握った。
 困ったなと思ったけれど無理に振りほどきたくなるほど強引でもない。
 日置くんは咳払いをすると、まっすぐにわたしを見つめて言った。

「春日」
「なーに?」
「俺、お前のこと好きみたいなんだけど」
「えっ?」
「……俺、お前のこと好きなんだけど。
 お前俺のことどう思ってんの?
 こうして一緒にいてくれるってことは嫌われてないって思ってていいんだろ」

 一瞬日置くんが何を言ってるのかわからなかった。
 日置くんがわたしを好き?……どういうこと?
 日置くんはぽかんとしたわたしに苦笑いして一方的に話を切った。

「急に言って悪かったな。
 でも俺は、そうだから。……返事今度聞かせてくれよ」
「……」
「じゃあまた明後日な」
「うん」

 彼は笑って手を離し、手を振ると行ってしまった。
 日置くんを見送ったら電話しようとそわそわしていてあんまりちゃんと話を聞かずに
 相槌を打っているいうちに約束してしまった。
 一緒に会っていて楽しいから遊びに行くのは嫌じゃない。
 でも二人っきりとか困るから明後日にそう断っておこう。
 とりあえず譲くんに電話しなくちゃ。
 わたしは何を言われたのかを考えるので手一杯でごちゃごちゃになっていた。
 でもそれがどれだけ譲くんを傷つけたかわたしは知らなかった。
 何だか苦しそうな顔をして、わたしを一瞬睨むと俯いて顔が見えなくなった。
 あの顔は何処かで見覚えがある。
 鎌倉で、屋島で追い詰められた譲くんの顔。
 あの強い瞳に射抜かれると、わたしは動けなくなる。
 いつも優しいけれど、たまに譲くんの見せるそんな顔が本当は好きだったりする。
 わたしを好きだと言ってくれているから。
 わたしの前からいなくなってしまった譲くんの面影が浮かんで消えた。
 ここで間違ったらわたしはまた譲くんを失うという確信で胸が一杯になって苦しい。
 もう二度と譲くんを失いたくない。
 だからあの時みたいにもう一度譲くんを捕まえなくちゃいけない。
 譲くんはあまり本当のことを言ってくれない。
 決して嘘つきじゃないけれど、大事なことほどなかなか口に出してくれない。
 わたしが子供だから、譲くんがどんな風にわたしを求めてくれているのかわからなかった。
 いつかそうなる日もくるんだろう、なんてぼんやり考えることはあったけれどまさか今だなんて。
 でも嫌じゃなかった。
 心の底ではそれを望んでいる自分がいたことを知っていた。
 だから譲くんの差し伸べられた手を握ることに迷いなんてなかった。







「もうお昼ですよ?そろそろ起きませんか?」

 優しい譲くんの声がして起き上がる。
 自分が譲くんのTシャツとハーフパンツを着て、譲くんのベッドで眠っていたことにまず驚いて、
 気恥ずかしくなってタオルケットを引き上げる。
 そのタオルケットからは洗剤の匂いとお日様の匂いと、譲くんの匂いがした。

「……おなかすいたんじゃないですか?
 もうすぐ出きるんで起きてきてくださいね」

 よく聞き取れなかったけど、最後にちいさく望美と付け加えて、
 譲くんは照れたのか勢いよく立ち上がり下へ行ってしまった。
 わたしはびっくりして一瞬ぽかんとしたけれど、朝ごはんの匂いに気付いて飛び起きた。
 台所に行けば、譲くんはサラダの仕上げをしていた。

「もうすぐできますから」
「……うん。何か手伝えることある?」
「じゃあ目玉焼きを皿に乗せて貰えますか?」

 それくらいならできるだろう、と手を洗いフライ返しを握り締めガズレンジの前に立つ。
 フライパンの蓋を開けると、綺麗な目玉焼きがふたつ。
 焼き加減も完璧だ。
 そうっと持ち上げようとしたのが良くなかったのかもしれない。
 卵はつるりとすべり裏返ってしまった。

「あっ」

 わたしのあげた悲鳴に、譲くんは苦笑いすると、ひっくり返っていなかった方の目玉焼きも
 フライ返しで綺麗にひっくり返した。

「じゃあ、今日はオーバーイージーにしましょうか」

 チン!と焼き上がったトーストをまな板の上にのせ、目玉焼きとハムとチーズをはさむ。
 ざっくりと二つに切って皿に載せた。

「たまにはこういうのもいいでしょう?」
「うん、すごくおいしそう」

 片目を瞑っておどけてみせた譲くんに驚く。
 譲くんはさめないうちに食べましょう、とわたしに席に座るように促した。
 入れたてのコーヒーにサラダ、数種類の果物、そしてホットサンド。
 譲くんの作るごはんを食べるのは久しぶりだ。
 どれも悔しいくらいおいしくて、ほっぺがゆるみきっているのが自分でもわかる。

「……こんなにおなかがすくの久しぶりなんです。
 すごく美味しく感じる。やっぱり貴方が美味しそうに食べてくれるからかな」
「そうなの?」
「ずっとこのところ眠れてなくて、食欲も無かったので。
 こんなに食べるのは久しぶりかもしれない」
「譲くんのごはんって美味しくて、本当に幸せな気分になるんだー。
 でも今日はもっと早く起きて、譲くんの誕生日お祝いしたかったな」
「……そうですか?
 俺は今充分すぎるくらい幸せですよ?」

 無防備すぎるくらいの笑顔を譲くんは向けてくれた。
 心からの笑顔。
 譲くんはこんな風にも笑うんだ。
 正面から見ていられなくて俯いたわたしを見て、譲くんは笑って、
 チェリーをつまむとわたしの口に放り込んだ。


背景画像:空色地図

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