神風吹かず
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予め知っていたとは言え、湾の中を軍艦が進んでくるのを見るのは
あまりいい眺めではなかった。
「……七隻か」
予定通りの方向で進入してくる。
夜明け前、哨戒として出航していた汽船三隻が脇元浦でイギリス艦隊に拿捕された。
手筈どおり、それを宣戦布告の合図とし攻撃を開始する。
台風が近いのか雲が多く、少し風が強い。
イギリス艦隊の使用する砲は、最新式のアームストロング砲。
こちらの砲は勿論射程距離も、精度も比べ物にならないけれど、
荒天の中の操艦は思うようにいかないようだった。
この風向きでは思ったよりも城下に被害が出るかもしれない。
それとなく避難の指示を出し、自分も采配を揮うべく、部署へ向かう。
鹿児島城が当然標的となることは予想されたので、本営と定めた千眼寺に
国父と藩主にはお移りいただいた。
かつて長崎で学んだ水雷の技術を生かすように。
国父直々に命じられれば行く他ない。
直接指揮を執り、それとなく手心を加え、最低限の被害に留める。
戦うものたちの練度がどれほどかを見ておくのも必要なことだ。
そう思い定めて海岸線へ駆ける。
これが茶番だと知る由もない者達は当然真剣そのもので、
砲撃の音に逃げ惑う民の波に揉まれながらも奮戦していた。
この日の為に演習を繰り返した兵の練度は悪くは無い。
精度の悪い、飛距離のない砲の性能を最大限引き出しているように見えた。
「いつ接岸されても良い様に、上陸に備えよ」
白々しいと思いつつも、命令を下す。
あちらの船で上官が下士官の暴走を抑えきらなければ、
上陸はありえない話でもないし、上陸に備えよと命を下さないのは
用兵上あまりにも不自然すぎる。
家老直々の指揮に、その場の士気は高まった。
夕暮れまで耐えられれば終わる。
そうわかっていても砲撃の音は心を動揺させた。
今は出来うる限り被害を食い止めるほかはない。
まずは自分が冷静でいることだ。
次第に火の手の上がりだした城下の消火作業を急がせる。
砲弾の飛び交う中でのその作業は困難を極めた。
今は火の手が広がらないようにその範囲を狭めることしか出来ない。
「燃えてしまっている場所はもう仕方が無い。
それ以上燃え広がらないようにせよ」
砲弾が飛び交う轟音の中、必死で声を張り上げる。
自分で決めたこととは言え、見ていて気持ちの良い光景ではない。
濛々と上がる煙、上がる火の粉、舐めるように広がる火の海。
打っても届かぬイギリス艦隊への攻撃は最低限に。それよりも消火活動に専念させた。
もう二度とこうして薩摩の地を焼かせはしない。
……戦火に包まれるのはこの一度きり。
効率よく避難をさせた為、人的被害はそれほどは出てはいないだろう。
けれど、薩摩藩の叡智の結晶であった集成館が燃えているのが見えた。
それを見て涙に暮れ立ち尽くす藩士を叱咤する。
「泣いていても仕方がないだろう。
また再建は出来る」
力無い我らだからこそ焼かれなければならない。
新しい技術を得て、もう一度再建させねばこの砲撃の意味はなくなる。
風がまた一層強くなった。
そろそろ潮時か。
「……御家老!」
思いつめた表情で傍付が、厨子を差し出した。
力に誘われるようにそれはかたかたと鳴っている。
「御家老、白虎を……!」
「攘夷を!せめてそれで一矢報いては下さいませんか!!
「白虎を召還はされぬのですか、今こそ薩摩の大事。
こんな時の為にこれはここにあるのではないのですか?」
「神風を、……御家老!!」
攘夷を、と燃えるような眼で、厨子を差し出す。
それほどまでに現実を受け入れることが出来ないものが多いのか。
これが閉ざされた国に住まう者たちの現実か。
自分の力で成しえないものを異形の神の力を借りてまで成し遂げようとする。
それを浅ましさと気付き、受け入れる強さもないのだろうか。
「遣いたいのなら、君が使って。
私は白虎を使う気はないよ」
「御家老!」
「御自分の身がそれほど可愛いのですか!?」
「御家老が、藩の大事に何も為されないのですか!?」
「黙りなさい」
命を捨てる覚悟が無いと思われるのは心外だった。
家老とは単なる権力職ではない。
藩主に難ありとわかれば、その座から下ろす権限もある。
強大な利権も生ずる。
けれど、その命をもって藩を救わなくてはならないのも家老だ。
少し前の薩摩藩家老は窮地に陥った藩の財政をその命であがなった。
命を懸けて財政を立て直したからこそ、名君といわれた島津斉彬もその手腕を発揮でき、
今の薩摩がある。
家老の命は軽くはない。自分が死ねば一枚の手札を薩摩は失う。
こんな茶番の戦で投げ出すわけにはいかなかった。
思っているよりも人は強くも賢くもなれない。
学ぶのには時間が要る、そうわかってはいても、
古い考えにしがみ付く武士の愚鈍さに心の底から嫌気がさした。
「お前たちは攘夷が可能と本当に思っているの!?」
鹿児島城へ着弾し、轟音を立て、櫓が落ちる。
湾から城への砲撃の範囲内は火の海となっていた。
燃え盛る火がさらに風を呼びおこしひどい状態になっている。
「……いつまでも吹くことのない神風が吹くのをただ待ち続け、
君等はこの国が朽ちていくに任せるつもりか。
自らの力の無さを受け入れることを拒むのなら、薩摩はここで終わると同義だろう。
我等には力が足りないのだ。
対等に渡り合うには外国より、船を、砲を、力を学ばねばならない。
英国を初めとした外国は自分の力でこの極東まで航海をしている。
我等にその力があるのかい?
ここから打つ砲はあちらの艦隊に届かない。
しかしあちらの砲撃はこうして、我等が薩摩の地を焼いた。
此れほどまでにわかりやすい力の差を認めることも出来ないのか」
「しかし」
「……今日は届かなかった砲も、いつか届く日が来るだろう。
我等の力が届かぬ、及ばぬことを知ったことは必ず強さになる。
そう、信じることだ。
でなければこうして砲弾の雨が降り注いだ今日一日が全て無駄になる。
……我等はこの国の中でも先駆けて目覚めなければならないんだよ」
「だとしても」
「……交渉とは対等に行わなければ意味が無い。
人外の力を振るい彼らを退けて何になる?
それに縋る我等を彼らは野蛮人と罵るだろう。
彼らと同じ交渉の席に立ちたくば、同等の力を持たねばならない。
我等も同じ人であるのだと認められなければ意味がない。
だから私は人に、この神の力を使うつもりはないよ。
これは……人以外のものに向けられるべき力だ」
そのための、今日一日。
でなければ、郷里を焼くことを承諾などしはしない。
下関のように、玄武の力を行使して敵を退けることは可能だったかもしれない。
その考え方も間違ってはいない。
けれどそれはただの時間稼ぎで何の解決にもならないし、敵としてはならない相手だ。
玄武を行使した人間は英雄と称えられるかもしれない。
私は自分の命を惜しんだ臆病者と言われるだろう。
でもそんな一時の賞賛に何の意味があるだろうか。
眼を凝らし、英国の艦隊を見やれば、大型船が一隻砲が暴発したのか、黒煙を上げている。
こちらの砲撃ではほとんど損害を与えることは叶わなかった。
予定の砲数を打ちつくしたのか、碇を上げ、引き上げる準備をしている。
「撃ち方止め!撤収せよ。
これ以上撃っても弾の無駄だよ。
撤収の準備と共に城下の消火に全力を挙げよ」
呆然とそれを見送り藩士は尋ねた。
「……我等は勝ったのですか?」
「……本当の負けは上陸を許し、占領されることだろう。
全世界に領土を持つ英国が退いたのだから、これは負けだとは言わないだろうね」
勝ちを譲られたのだとは口が裂けても言うつもりは無い。
今頃、英国の艦隊の中でも何故これ以上攻めないのかの下士官の不満が噴出しているだろう。
艦隊は横浜へ退くのだろうけれど、城下を焼かれた我等が勝ったとは私には言い難かった。
けれど見る者によってはこれは『勝利』だ。
国力の差を考えるなら圧倒的な『勝利』だろう。
この戦闘の賠償問題を話し合う席を『最初』に公に持つことで、
表に見える形で我が藩と英国は交渉を始めていくことが出来る。
全てはこれから。
お互いに痛みを伴う始まりだったとしてもこれ以上の関係の悪化はないだろう。
「御家老!」
「……何?」
血相を変え、傍付が駆け寄って耳打ちする。
「西郷殿が」
「西郷が、何?」
「国の大事と島を出られたそうです」
「…………蟄居の身で?」
「はい。
早々に戦闘が終わったので島にはお戻りにはなるようですが」
「……まあ、いい。
国父にはそれとなく耳に入れておいてくれる?
そろそろとりなすには良い時期だし、私は京に詰めなければならないことを考えれば、
自由に動けるあの男が必要になるしね。
郷土愛に溢れた男だということは良く国父もご存知だから恩赦もあるでしょ」
「はぁ」
こんな副産物もあったとは。苦笑いを噛み潰す。
無駄な戦闘ではなかったのか。
これを全て生かす方向へ持って行かねば長かった今日一日は報われない。
まずは火の海に包まれた城下の消火活動と、被害報告のまとめ、
上奏されてくる再建計画の吟味、……やらなければならないことは多い。
早く再建の目処を立てて、京へ発たなければ。
時の流れは速い。一刻の猶予もないだろう。
英国との交渉の席も持たなくてはならない。
国元よりも京でのほうが、仕事は多くなるだろう。
小松自領の整理もしておかなくてはならない。
今度はいつ戻れるのかわからないのだから。
けれどまずは、この火を消し止めなければ。
「…………まったく、忙しいことだね」
「御家老!」
「……この場を離れられるものは続け、消火活動を始める。
他の隊にも連絡、伝令を走らせよ」
「はっ」
火に怯え興奮する馬の首をひと撫でし、落ち着かせると、馬首を火の海の方向へ向けた。