神風吹かず




  −2−


「……かの元就公は、天下を狙うこと無かれ、むしろ六十余州を五つに分けて
 その一つを保ち、栄華を子々孫々まで残せと言っていたとかいないとか。
 領地を失い、恨みばかりが残るとは無駄ばかりだと思うけれど。
 長州も、余計なことを。恨むべきは異国ではないだろうに」

 さっき見た港に停泊していた一に参の星を染め抜いた帆を掲げた船を思い浮かべる。
 長州と薩摩は仲が良好だとはとても言えない。
 下級藩士などはいがみ合っているようだけれど、
 我々上に立つものは私情だけではいつか動きが取れなくなる。
 高杉や、桂などの主だったものたちの名前と顔は知っていた。
 つい先日、命令どおりに長州が『攘夷』と称し、下関で外国船を攻撃。
 怪しく群雲に覆われた下関海峡には異形の神が降臨したという。
 関が原の合戦の後、行方不明とされていた玄武であったのではないかという噂だ。
 玄武は水気を司る神。
 海戦に使われれば、絶大な威力を誇っただろう。
 品川の領事館を襲ったのも同じ異形の神であったという。

「けれどあれは呪詛がかかっていたのではないの?」

 気配を感じて、振り向けば、その厨子のふたがことりと鳴った。
 厳重に封印を施し、鎖で固定してあるにもかかわらず、時折それは鳴る。
 執務をとっている時にふらりとそれは白い猫の形を取って訪れた。
 まさかそれが白虎であったとは、普通誰も思いはしないだろう。
 たまに気まぐれに現れ、執務の邪魔をした白猫。
 それが顕現した聖獣白虎だった。
 四神を顕現させることが出来るとそう周囲に思い込まれ、
 いつしか札の持ち主として管理を任されてしまっていた。
 ここ暫くぴくりとも反応しなかった白虎の札。
 それが鳴ったのは維新の風が吹くからか。
 そういった類の話は好きではないし、薄気味が悪い。
 本当はそんなものは持っていたくもない。
 京へ行くにも江戸へ行くにも携帯を国父その人に義務付けられてしまっては
 何も言えず今は家老の職務のひとつだと諦めている。
 札と一緒に伝わっていた古文書によれば、
 呪詛を解かずに四神を使役すれば、術者本人の寿命を大きく削ることになるという。
 龍神の神子の加護を受けた八葉でもない限り術者本人に大きな負担を強いる。
 それでもこの札が薩摩に伝わってきたのは、国を守る力を秘めているからに違いなかった。

「龍神の神子、ね」

 何度かこの国を救ったとされる伝説の娘。
 何処かより龍神に選ばれ、その力を行使する。
 この百年現れたという話は聞いていない。
 呪詛は神子になら解く事が出来るのかもしれない。
 しかし呪詛が解かれたとしても白虎を自分が使役するなど想像もつかない。
 先日玄武が顕現したその場に、龍神の神子が降臨したのではないか、
 そんな噂もある。
 けったいなと思うけれど、神に選ばれた清らかな娘。
 会うこともないだろう娘に少し興味がわいたけれど、
 頭を振って思考を戻した。

「……今はそれよりも英国との交渉か、か」

 交渉ですむ段階はもう過ぎてしまった。
 かといって恭順するような形で慰謝料などは払えない。
 それでは対等な交渉権など得られない。
 ならば、英国に報復をさせ、その賠償をするという形でなければならないだろう。
 したくもない戦をどれだけの規模で収め、慰謝料などを取り決めいかに早く収束させるのか。
 その采配を振るわなければならないのは自分だ。
 英国領事館の面々の顔を思い浮かべ、ふと若い通訳の顔が浮かんだ。
 アーネスト・サトウ、と言ったか。
 サトウであって、佐藤ではないのですが。
 苦笑いしたその裏に透けた困惑と、不蔑に対する強い警戒心が強く印象に残っていた。
 彼等も事を構えても何もいいことはないと知っているだろう。
 けれど、長く続いた武士の世に生きるこの国の民は、
 未だ神風を信じ、外国の力に屈することはないのだと思い込んでいた。
 息巻く下級武士たちを抑えることは難しいだろう。
 ……一度鮮やかに負けてみるのもいいかもしれない。
 被害を最小限に留めることが出来さえすれば。
 『攘夷』など出来やしないのだと、少なくとも薩摩の人間には骨の髄まで
 知らせてやることも必要なのではないか、そこまで考えたところで
 私はいったいどちらの味方なのだろうか、と思いついて可笑しくなった。



 気に入ったのか、じっと硝子の杯を手にとって眺め、彼は溜息をついた。

「冗談ではないですよ、小松さん」
「……無事で良かったじゃない、サトウくん」
「この国にいたら、命は一つでは足りない気がします。
 本当に野蛮で、嫌になりますね」
「別に礼儀を知らないわけじゃないよ。
 ただ相手を見極めて合わせているだけ、……だからね?」
「私たちが野蛮だと、言うんですか?」
「君が紳士的であるのは認めるよ。
 ただ、眠れる獅子の牙を抜いた君等のやり方が紳士的だとはとても思えないね」

 痛いところをつかれたのか、サトウくんは目を伏せ、
 息を一気に吐き出すと、苦笑いした。
 西洋人特有の優雅だけれど、大きな身振りでおどけてみせる。

「まったく、本当に嫌になりますね。
 ……薩摩との平和的解決の為に、秘密裏にこちらへと私が遣わされたのに、
 非公式とは言えその使者である私が攻撃を受けるなんて。
 この国に来てから我が国の人間が何人酷い目にあったことか。
 言葉を使うべき我等が、武器を振るう方が多いなど、外交官の名折れです。
 ……女王陛下に申し訳がたちません」
「随分と日本語が達者になったじゃないか、サトウくん」
「私が見たいのは血ではなく、どちらかと言えばこういった美しいもの、なんだけどな」

 切子を光に翳して眺め、入っていた焼酎を飲み干し、彼は少し顔をしかめた。

「ああ、あの時に会った少女も可憐でしたけどね」
「少女?」
「……ええ。
 私があのモンスターに襲われそうになったとき、間に入って庇ってくれた女の子がいたんです。
 大きな夢見るような瞳をしてるくせに、迷いがなくて。
 この国に来て初めて話が通じる相手に出会ったようなそんな気がしました。
 あの大きな化け物を鎮めようとしていた。彼女は無事、だったのかな」
「……へぇ、じゃあ君は龍神の神子にあったというんだね」
「リュウジン……の、ミコ?なんです?それ」
「この国の伝承に伝わる、神の使いとして現れるという少女のことだよ」
「……神の使い?ジャンヌ・ダルクのような聖女、ということですか?」
「よくはわからないけど、まあ、そんなところかもしれないね。
 そうか、……君は出逢ったのか。運がいいのかな」
「そうですか?
 私は美しいものは好きですけれど。
 もう少し給料を貰えるのなら、もっとこうした美しいものを手に入れたい。
 この国の人は本当に愚かです。
 この国には美しいものが沢山あるのに、その価値がまったく理解できていない。
 もし、この国が正しい形で開かれたら、こんな工芸品はきっと
 全世界のコレクターに買い占められてしまうでしょうね。
 ……今はまだ、私のような階級のものでもこうして眺められるけれど、
 いつか遠いものになってしまうのかな」

 寂しそうに微笑むとサトウくんはことり、と杯を置いた。

「色のない切子細工のグラスならワインがさぞかし映えるでしょうね。
 小松さんはワインをお好き、でしたよね?
 今度年代物でもお持ちしようかな」
「それで祝杯をあげるのかい?それはいいね」
「幕府の役人はシャンパンが相当お気に召したようで。
 領事館に役人が訪れると知らされたときには真っ先に隠すようになってしまいました」
「ああ、あれはとてもいいね。綺麗だし、とても香りもいい。
 けれど私は葡萄酒の方が重みがあるし芳醇でいいかな」

 自分の杯をひょいと持ち上げて飲み干せば、
 サトウくんはそれが開始とばかりに正面を向いた。

「……では、本題に入りましょうか。
 お読みいただいた書簡でお分かりだと思いますが、
 生麦村での不幸な事故。領事は大変に困っておられます。
 本来ならば、領事と薩摩の代表である貴方との話し合いで決着がついた。
 もしくはこの国の『代表』である幕府と薩摩藩との話し合いで、
 犯人の引渡し、慰謝料の受領について命令が下るのが普通です。
 けれど幕府は薩摩藩に対しては手出しが出来ないような口ぶりでした。
 何故なんでしょうね。
 タイクーンはKing、王ではなく、あくまでPrince…大名の代表であり、
 幕府は国の代表たり得ていないような状態です。
 我々も何処と話をしたら良いのか、よくわかりません」
「まあ、代表と言えば、京におわす宰相なのかもしれないけれど、
 宰相は表舞台には決して立たれることはないだろうね。あくまで宰相なのだし」
「その辺も良く、わからないのです。
 わけもわからず、怒りの矛先を何処に向けて良いのかわからないまま、
 交渉に入った結果、法外とも言えるような慰謝料が遺族に支払われる事態となりました。
 遺族に払われる慰謝料……その決断はわが国とっては悪いことではありません。
 ですが……。
 国家的プロジェクトの予算の十分の一ほどの要求を
 呑まれるとはこちらも思っていませんでしたよ。
 いくら幕府が交渉が苦手、だとしてもね」
「そうは言ってもね。
 我等に非はないとは思うよ。
 少なくとも同じ日に、貴国の旅行者以外にも、アメリカの商人とも遭遇したけれど
 彼らは何も問題をおこさなかった。
 紳士の国を自負する君らが新興国と侮るその国の人間の方が、
 礼節を弁えていたことになるけれど、その辺は考慮には入れてはもらえないのかな」
「それを言われると正直頭が痛いですが、
 貴方のせっかちな主が同行するはずだった京への勅使よりも早く、
 出立をなさったお陰でこちらのスケジュールが狂ったのも覚えておいて頂きたいですね」
「まあ、あれは予定外の出来事だったからね。
 だとしても幕府が君たちに薩摩の行列による街道使用の自粛申請の通達がなかったというのが
 いかにもお粗末な話だけれどね」
「聞いたところによると、斬られた同胞は、
 蛮勇と言っていいほどのうかつさで知られた人物だったとか。
 旅先で開放的な気分になるのは理解できますが、これほどの問題を
 ただのうかつで済ませることもできませんしね」

 サトウくんは片目を瞑っておどけて見せた。

「……我等としては無礼討ちは罪として問えない以上、
 藩士を罪人と扱いそちらに引き渡すわけにはいかず、所在不明で押し通してきた。
 皆の感情を鑑みるにそれは当然のことでしょ。
 私は立場上、彼等を守らねばならないから。
 しかし、我々にとってはあまり良い事態とは言えないね。
 これで英国の報復が成されなければ、我々の関係が露見してしまう。
 英国とは条約を結んだけれど、それはあくまで幕府との間の話。
 我等藩とではない。
 藩単体で外国との交易は禁じられているし。
 つまり二重の意味で我等はまずい立場に立たされたというわけだね」
「そういうことになりますね」
「ただ何もしないということでは皆は満足しないだろう。
 さて、どうするかな」
「……私たちも、何もしないということでは横浜に常駐する艦隊を宥めることも、
 母国にも言い訳が立ちません」

 立ち上がり外を眺めれば、潮風とともに港が見えた。
 瞼を閉じれば、晴天の下桜島と湾に沿うように広がる街並が浮かんだ。
 それが砲火に晒されるのを想像するのはあまり気持ちのいいものではなかった。

「……砲撃は、必要かな。
 攘夷せよ、との命も下っていることだし、何も無ければ皆も納得しないでしょ」

 ぼそりと言った私をサトウくんは気遣わしげに見上げる。

「ただ撃ち込まれるのなら、薩摩の民に異国の力を見せておきたいね。
 それで目が覚めるのなら安いものかもしれない。
 これほどの相手と戦える力が我等には無く、
 ……異国と戦うために、その異国から武器や船を買い込まなくてはならないという矛盾を
 我々は身をもって知らねばならない。
 そして、神風はそう吹くものではない、ということも」
「カミカゼ、ですか?」
「かつてこの国が支那に昔栄えた国に侵略されたことがあってね。
 その時に運良く台風が来てね、それを退けることがあったんだよ。
 それからこの国は神風に守られている。そんな迷信が蔓延った。
 ただの偶然だったのにね。
 神風に守られているから外国の侵略になどはあわない。
 そんな考えではいつか押しつぶされてしまうだろう。
 この藩だけでなく、この国全体もね」
「……ミスター・パークスのお考え通り、考えの硬い幕府の役人と話すより、
 ずっと話の通りが良い貴方の様な方と話し合う方がずっとスマートに事が運びそうですよ」
「まあ……我が藩と付き合う以上損はさせないつもりだよ」
「一回の慰謝料より、末永い付き合いのほうがずっと利益は高い、ということですか?」
「そう考えてくれてかまわないよ。
 さて、日時と時間を取り決めてしまおうか。
 そのほうがお互い損害が少なくて済みそうだからね」
「こんな交渉など、私もあまり好きではありません。
 早く済ませてしまいましょうか」

 苦笑いするサトウくんにまったくだと答え、私は再度席に座る。

「双方が戦ったと思える程度の時間、戦闘をしたと思える程度の砲弾の数を揃えさせ
 艦隊に横浜を出航させましょう。
 これが形ばかりの戦闘であると知るのは上級士官だけでいい。
 間違っても上陸などさせず、砲撃の方向もある程度定めておきます。
 それで宜しいでしょうか」
「そうだね。
 君たちならわかるだろうけれど、こちらの砲は君らのものよりも
 当然射程は短いし、精度も悪い。
 その射程距離に入らない程度の距離からの砲撃であれば
 そちらの被害が最小限で済むでしょ。
 先ほど神風、と言ったけれどそろそろ文月。台風が来てもおかしくない時期になるね。
 まあ天候が悪化して海が時化たからとでも理由をつけてお帰りいただくのがいいかな」
「……まあ、そんなところでしょうか」
「そんなところだろうね」
「とんだ茶番ですね」
「……どんなことにも落とし前は必要でしょ。たとえ建前でもね。
 さて、話も済んだことだし、君もう少し呑むかい?」

 焼酎の入った瓶を揺らせば、サトウくんは苦笑いした。

「ショーチュー、でしたっけ、少しこの香りは苦手です」
「ああ、これは芋焼酎だからね。君には麦の方が良かったかな」
「麦、ですか。
 そうだな、呑むならエールがいいかな」
「えーる?」
「安い酒ですから、小松さんの口に合うかどうかは。
 やはり私のような階級のものなら庶民的な味の方がしっくりきますから」
「そんなものかな。
 それにしても君たちは本当に味覚については保守的だね」
「貴方方が貪欲すぎるだけですよ」

 サトウくんはハムにご執心だという幕府の役人の話を、
 おもしろおかしく身振り手振りを大仰に交えて話す。
 私はそれに付き合ってひとしきり笑った。
 必要な話であったとはいえ、あまりいい話題ではない。
 お互いに無理にでも笑ってこの空気を追い出してしまいたかった。

「今日は有意義な話が出来てよかったです」
「わざわざこんな別邸にまで来て貰ってサトウくんには手間をかけさせたね」
「いいえ。我等外交官は必要とあれば何処へでも行きますよ。
 領事にいい話を持ち帰ることが出来ますから、安いものです」
「……四神に襲われたとしてもかい?」
「まあ、あれはぞっとする出来事でしたけれどね。
 怨霊に、陽炎。この国では災難ばかりです」
「……いいところもあるのだけれどね」

 考え込むような顔をして、サトウくんは切り出した。

「…………。
 小松さんは、このまま薩摩に留まられるのですか?
 これからも小松さんとは話し合いの場を持ちたいと領事は希望していると思うのですが」
「薩摩が遠くて不便だと?」
「それもあります」
「まあ、国元でこなさなければならない雑事もそろそろ終わるし、
 これからは他の藩の人間とも緊密にやりとりをする必要もあるだろうから
 私は京に詰めることになるだろうね。
 今の時流の中心は江戸ではなく、京だ。
 藩邸もあるし、私の私邸もあるから困ることもないしね。
 君が尋ねてきたら、私邸のほうは出入りを自由にしておくから
 立ち寄るといい」
「ありがとうございます。
 では、次にお会いするのは京になるのでしょうか?
 京にも領事館はありますから」
「では、またその時に」
「……今度は上物のワインをお届けしますよ。家老就任のお祝いに」
「……それはいいね。
 もし、その切子気に入ったのなら君にあげよう。
 命がけでやってきて交渉の成功一つでは報酬としては安すぎるでしょ?」
「……次にお会いできるときには、祝杯をあげたいものです」
「そうだね」

 席を立ち、手を差し伸べてきたサトウくんの手を握る。
 握手は、交渉成立の証。
 慣れない習慣だとしてもそれくらいの機微はわかる。
 サトウくんは軽く手を握り返すと、片目を瞑りおどけて笑う。
 西洋人が日本人よりも歳が上に見えやすいけれど、
 その笑顔は少しあどけなくいつになく歳相応に見えた。
 堂々と渡り合い、段々と磨かれていくその外交的手腕で忘れていたけれど、
 彼はまだ年若かったのだなとふと思い出した。


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