天の羽衣




 −2ー


 君の思い出ばかりが残るこの藩邸を、家老である私は出ることも出来ない。
 平田殿の温もりは慰めにはなるけれど同時に君を思い起こさせた。
 君を忘れようと打ち込んだ政務も捗らない。
 思い出すのは硝子越しに見た君。
 文明の進んだ世界の硝子は明度も高く、薄く、歪みや曇りひとつないのがより切なかった。
 これほど見事な硝子は薩摩の最新鋭の工房でも作れないだろうと、あの時ぼんやりと思った。
 手を触れられそうなくらい近いのに。
 互いの温度をその硝子は伝えてくれさえするのに。
 どうしても、越えられなかった。
 あの時君は初めて君の言葉で君の想いを告げた。
 それは私が望んだはずのことなのに、その言葉は思った以上に私を抉った。

「共にいられないのなら、世界が別たれた時、
 奪った心も返してくれれば良かったのに」

 君の元に私の心が行ったきりになったように、君の心がもし私の元にあるのなら。

「……そんなことはあるわけないし、
 あったとしても非合理だね」

 君の幸せを心から願っているのに、
 今だけは君が同じ空虚さを抱えていてくれたらと願うなんて。

「馬鹿だね、私も。
 しかし君は、本当に手強い。
 傍にいなくとも私を振り回し続けるなんてね」

 平田殿の無防備な腹を撫でると、伸びていた平田殿が身を起こした。
 どうしたの?と声をかけると平田殿はすとんと庭へ降りとたとたと歩いていく。
 また平田殿の気まぐれか、それとも私の愚痴に聞き飽きたのか。ため息をつく。
 ……その時、鈴の音が聞こえた。
 平田殿につけた鈴の音ではない。
 そして私を呼ぶ声が聞こえた。聞こえる筈の無い君の声が。
 音のする方向に目を向ければ、柔らかな光が収束し、おぼろげに人影が写った。
 その形は紛れもない恋しい人の形をしていた。
 ……会いたいと願いすぎて私は幻でも見ているのだろうか。
 私が忘れようと必死で過ごして来た日々の努力を君は簡単に踏みにじる。
 まったく本当に君は思い通りにならない。

「ゆきくん!」
「小松さん」

 私の呼ぶ声に応えるように、君は微笑んだ。
 そして君から私の腕の中に飛び込んできた。
 君がそんなことをするのは初めてで、私は言葉を失う。
 腕の中に、確かに君がいる。ぬくもりも、香りもそのままに。
 私から抱きしめたら君は消えてしまうのだろうか。
 そっと力を込めてみても、君は消えなかった。

「君、どうして……」

 そう問えば君は私と共にいたいと言ってくれた。
 私の傍が一番幸せな場所だなんて可愛いことを言ってくれた。
 君は君なりに私のことを考えていてくれていたんだね。
 そして私のことを好きだと。
 君を必死で諦めようと心の整理ばかりしていた私に好きだと告げた。
 ああ、君はまったくどれだけ私のことを振り回せば気が済むのだろうね。
 君が、私の役に立たない?
 君の不在が私にとってどれだけ堪えたのか教えてあげたいくらいだよ。
 君は本当に性質が悪いね。
 どうしてこんなに無自覚に君は我侭なのか。
 凶悪なくらいに君は可愛い。
 だから私も我侭を口にする。
 君を二度と離しはしないと。そう言えば君は、頬を染めて俯いた。
 今まで君の一言が仕草がどれだけ私を動揺させてきたか。
 これからとことん仕返しをしよう。
 けれどきっと君には敵わない。
 計算などしなくとも君は私を振り回す術に長けているのだから。
 さあ、行こうか。
 手を差し伸べれば君は微笑み、迷わず私の手を取った。
 庭に現れた君を連れ、部屋に戻ると傍付きが得意の大声を上げた。

「神子様!」
「声が大きい。
 それにもう神子ではないよ。
 立派に勤めを終えて私の妻になるためにここに留まってくれるのだからね」
「ええ?!!」

 こりゃめでたいとどたどたと駆け出していきそうな傍付を呼び止める。

「待って。
 ゆきくんにいつもの団子と羊羹。私には抹茶をくれる?」
「はい、ただいま」

 あんな勢いで駆けていったら用件を覚えているのか怪しいものだ。
 そう思っていたら、ゆきくんがふふっと笑った。

「皆さんお元気そうで、よかった」
「……君も息災だったようで嬉しいよ。
 さあ、良く顔を見せて。
 顔色が良くなったね」
「そうですか?」

 頬を撫でれば君はくすぐったそうに笑う。
 頬には赤みが差し、肌に艶が戻っている。

「久々にお母さんのご飯が食べられたし、
 ぐっすり眠れましたから」
「そう。
 私は君を想って眠れない日々が続いたのに。
 本当に酷い子だね」
「すみません」
「母上や父上とはお話出来た?」
「はい、たくさん話せました。
 瞬兄も、祟くんも都ももとの生活に戻って生き生きしてました。
 祟くんの誕生会もクリスマスもちゃんと祝って、楽しかった……」
「そうだろうね。目に浮かぶよ」
「でも小松さんがいなくて。会えなくて。
 寂しがっていた私に、お母さんが、
 一番幸せになれる場所に行きなさいって言ってくれたんです。
 私の幸せが、お父さんとお母さんの幸せだからって」
「……そう。
 君が一番幸せになれる場所は私の傍だって言ってくれるんだね」
「……はい」
「私もね君がいなくなった後、幸せにはなれないとわかったよ。
 だから私の幸せも君の隣にあるんだよ。
 わかってくれるね」
「はい……」

 君は頬を染めて俯いた。

「それにしても君の母上には負けないと言いながら、情けないね。
 結局君の母上の後押しがあって私の想いも成就したのだから」
「はい」
「ご両親の期待に添えるように私も努力しなければね」

 わたしも頑張ります、と君が一生懸命頷いたので頭を撫でると、
 失礼しますと声がして、歳のいった女中頭が目を潤ませて、茶と茶菓子を持ってきた。

「こちらで宜しいでしょうか。神子様」
「もう、神子ではないと言っているでしょ」
「小松さん……なんだかむきになって可愛い」
「なっ、もう……ゆきくん勘弁してくれる?」

 思わず顔を赤らめた私を、女中頭は目を細めて見つめ、
 袂でわざとらしく涙を拭ってみせる。

「仲がよろしくて何よりです。
 神子様がお帰りになられてからこの邸も火が消えたようになっていたんですが、
 こうしてお戻りになっていただいて、使用人一同も嬉しく思っています」
「そうなんですか?」
「はい。
 この邸にようやく春が来たんですから。
 本当に神子様、ありがとうございます」
「もう、神子じゃ無いって言っているのに。
 そうだね、ゆきくん。君はどう呼ばれたい?」
「え……?
 ゆき、でいいですよ?」
「それではゆき様とお呼び致しますね。
 夕餉までお時間がありますからごゆっくり。
 御家老、夕餉はお二人でおとりになりますか?」
「そうしてもらえる?」
「わかりました。
 たとえ若殿がお越しになっても今宵はお取次ぎいたしませんから」
「もういいから下がりなさい」

 任せてください、とばかりにどんと胸を叩いた女中頭を下がらせる。
 この邸には本当にお節介が多すぎる。

「はぁ……、折角の茶が冷めてしまう。
 店で食べるのとは違うかもしれないけれど、
 あの店のものだよ。
 今日は流石に無理だけど、時間が出来たらまた行こうか」
「はい」

 君は嬉しそうに笑って、羊羹を口に入れた。

「……やっぱり美味しいです」
「それは良かったね」
「小松さんが甘いものが食べられれば良かったのに」
「そう?」
「だってこの幸せを一緒に分け合えたらって思いますから」
「…………そ、そう?
 そんな笑顔で嬉しくなるようなことをさらっと言わないでって言ってるでしょ?
 ま、いいか。
 今は他に誰もいないし、誰に見られてもかまいはしないか」

 君を引き寄せて腕の中に閉じ込めると、驚いた君はじたばたと動いた。
 私が離す気がないのを悟ったのか君は動くのを止めたけれど、
 緊張しているのか身を堅くしている。
 ああ。君だ。
 ほっとするのと同時に笑いがこみ上げる。

「そんなに堅くならないでよ」
「無理です」
「そう?
 私の腕の中はそんなに居心地が悪い?」
「その、そんなことはないですけど、
 ……恥ずかしいです」

 消え入るような声で言った腕の中の君の体温が上がっている。
 この体勢では顔が見えないのが残念だけれど、真っ赤になっているのだろう。
 こうして身を堅くしているのはいつまでかな?
 自然に添うようになってくれるのはいつからだろうか。
 そんな日が来たらいいと願えることはなんて幸せなんだろう。

「今度君の着物を見よう」
「えっ」
「君、いつまでもその姿でいるつもりなの?」
「あっ、そうですね」
「君の着物を見立ててあげたいと思っていたからね。
 楽しみにしているよ」
「はい……」

 君の体温をいとおしむ様に撫でれば君は再び身を堅くする。
 こんなに緊張を強いるのも悪いかな、そう思いながら、
 君の不在で荒れ果てた自分の心が暖かなものに満たされていくのを感じていた。

「あ、あの。……もういいですか?」
「だーめ。
 君の不在にどれだけ私が堪えたのか君はわからないでしょ。
 まだ君が足りないんだから。
 もう少しだけ、こうさせて?」

 わかりました、と頷いたのを気配で感じ、いい子だねと囁けば、
 君は恥ずかしさで身を捩った。
 君は君の意思で私の元へ再び戻ってきてくれた。
 君が私の元にいたいと願ってくれたから、私は二度と手放さない。
 例え帰りたいと懇願しても、もう二度と帰す気は無い。
 地上の衣に身に包み、地上の食べ物を食べ、もう二度と天に帰れなくなればいい。
 こんな気持ちは君にはわからないだろうし、知られたくもない。
 でも君がそれを知ったら私を馬鹿だと笑ってくれるだろうか。
 結局私には君の羽衣(自由)を奪えはしない。
 今そこにいるそのままの君が好きなのだから。


背景素材:空色地図

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五風十雨に続いています。よろしければ。 お気に召していただけたらぽちっとして頂けると幸いです