天の羽衣




 −1ー


 月から迎えに来た天人が別れを惜しむかぐや姫に天の羽衣を着せ掛けたとたん、
 姫の嘆きも悲しみも、そして愛情も全て忘れてしまったのだという。
 それを薄情だと思うものはいるだろう。
 私はそうは思わない。
 帰らねばならないのなら、もう二度と会えないのなら全て忘れた方がいい。
 懐かしい優しい思い出が、先に進む者の歩みを阻み、
 立ち止まらせてしまうくらいなら、忘れてしまった方がいい。
 優しい君が今日も安らかに眠れるように私は祈る。
 辛い神子の勤めを終えた君がずっと帰りたかった我が家で両親と再会し、
 前と変わらぬ充実した日々を過ごせていますように。
 いつか柔らかな繭を出て、君は美しく羽化するのだろう。
 それを見れないことが残念だけど君の幸せを祈っている。
 私は君の八葉であれたことを幸せであったと最後に君に告げた。
 それは本当のことだけれど、半分は嘘だ。
 私は君のただひとりの男でありたかったのだから。

 全て忘れて天へ帰ったかぐや姫とは対照的に、
 この地上に残された者たちは失った姫を偲んで嘆き続けた。
 姫が残した不死の薬も悲しみが続くだけだと、煙と消えた。
 私はどうやって君を忘れよう。
 八葉の勤めを成し終えて手ぶらで藩邸に戻った私を、皆はため息をついて迎えた。
 女中たちは何を期待していたのかあからさまに落胆していた。
 私の気持ちを知ってか知らずか縁談は変わりなく舞い込んでくる。
 私は八葉である前の生活に戻り淡々と政務をこなした。
 江戸城で遠目に見かけるお目付と、ふらりとやってくる龍馬くらいしか
 仲間の面々と出会うこともなくなった。
 龍馬は明らかに気落ちしていた。
 初恋の少女との別れは思っている以上に堪えたのだろう。
 落胆する龍馬のせいか、私の思考がまとまらないせいか、
 近頃話し合いが上手くいかない。
 西郷が落胆のため息をついて恨みがましく私を見る。

「折角龍の姫さんが、一橋派の評判をあげてくれても
 これでは何にもなりませんな」
「……何」
「江戸にいる桂殿も、足場を固めに長州へ戻るようですし、
 そろそろ話し合いの成果が欲しいところですがなあ。
 ……龍の姫さんがいればとこんな時思いますな」
「君まで何を言うの、西郷」
「いや、……龍の姫さんが御家老を落ち着かせてくださったことが
 あったことを思い出しましてな。
 八葉のお勤めで忙しいながらも、あの頃の御家老は素晴らしい集中力で
 政務を片付けておられたし、いやはや惜しい」
「……」
「姫さんは故郷に戻られたんでしたな。
 もう一度こちらにお越し願うことはできんのですか」
「……それが出来たら、苦労はないのだけれどね」
「……つまらんことを申し上げました。
 まあ出来ることをやっていくしかありませんな。
 しかし、……真に惜しい」

 睨んだところで西郷はただため息をついて私を見るだけだ。
 君がどれ程私を変えてしまったか。今更ながらに思い知る。
 存外未練がましかったのだな、私は。
 平田殿の背を撫でながらほんやりと庭を眺める日が続いた。
 政務は滞らない程度にこなしているものの、捗っているという手ごたえも感じられない。
 私の一部を君が持っていってしまった。
 君がいない世界がこんなに空虚なものだったとは。
 私は自分の責務を放棄する気はないけれど、時折夢想した。
 蘇った君の世界を二人で歩く夢を。
 図書館に、水族館に大きな商業施設もあった。
 あんな場所を二人で歩いたらどんなに楽しかったか。
 そしてこの部屋に残っている君の気配に思いを馳せる。
 眠っていた君の穏やかな愛らしい寝顔、繰り返される小さな吐息。
 平田殿と同じ姿で眠る君を私はしばし眺めていた。
 ほんの悪戯心で私の膝を君の枕にしてみたけれど、
 君は起きる気配もなく眠っていた。
 懐かなかった猫を手懐けたようなそんな気分に浸ったのもつかの間、
 君はお母さんと呟いた。
 眉間にしわを寄せ、泣きそうな顔になった。
 ……夢の中ですら、君は休めていないのか。
 今は私がここにいるから、今だけは安らかに。
 そんな気持ちで髪を撫でれば、君は安心したように寝息を立てた。
 そんな君を愛おしい、と思った。
 柔らかな君の髪も、少し荒れていたものの充分にすべらかといえた肌も。
 こうして二人でいられる時間に幸せを感じていた。
 ……君も同じような安らぎを感じてくれていたらいいのに。
 そう考えていたときには全てが手遅れだったのだろう。
 結局君に心奪われた抜け殻がここにあるだけになってしまった。
 抜け殻の自分を省みて、そんな己自身に苦笑いする。

「君の不在は堪えるだろうとは思っていたけれど、ここまでとは。
 我ながら、情けないね」

 君より少し長く生きているゆえ、時が癒すものもあると知っている。
 いつか癒えてしまうのなら、今はその痛みに酔うのもいいか。
 勤めに支障をきたすほど、落胆することさえなければ優しい思い出に
 しばし浸ってみるのもいい。
 今日は満月か。
 ぼんやりと月を見上げていてふと、天の羽衣の話を思い出した。
 子供の頃寝物語に聞かされたそれは、天女に恋をした男の話。
 天より舞い降りた天女が羽衣を脱いで水浴びをしているのを見つけた男が、
 その美しさに恋をして羽衣を隠し、天へ帰れなくしてしまう。
 けれど結局天女は羽衣を見つけて天へ帰ってしまうのだ。
 帰ってしまうものにどうして恋焦がれたりするのだろう。
 幼い私は恋を知らなかったから、その男はなんて愚かなのだろうと思っていた。
 そして恋を知った後、今度はどうしてその男は羽衣を始末しなかったのかと思った。
 ただの衣であるならば、焼くことも、遠ざけることも出来ただろうに。
 何故それをただしまっておいたのか。
 見つかれば恋しい人は去ってしまうとわかっているのに、どうして。
 大人になり、気性も考え方も次第に世慣れていくにつれ、
 それがおとぎ話であるが所以の、ただの辻褄合わせと解釈するようになった。
 おとぎ話には因果応報を教えるものも多い。きっとそれもそうなのだろうと。
 けれど、私は知ってしまった。
 私も天女に恋をしたから。
 男は愛していたから羽衣を奪うことが出来なかったのだ。
 多分最初はただ美しい、好ましいから傍に留めたいと半分は冗談交じりだったのだろう。
 だから男はただ羽衣を隠し、捨てることもしなかった。
 けれどいつしか本当に天女を愛してしまった。
 今ならば天女に自分のもとに留まってくれと願いながら、
 羽衣を隠し続けた男の気持ちがわかる。
 天女とは天へ帰るもの。そう知りながらも愛してしまった男の心が。

「馬鹿だね、……私も」

 困りますといういつもの傍付の声と、聞きなれた足音が聞こえた。
 不服そうに平田殿が膝から降りて何処かへいってしまう。

「帯刀、しっかりしろ」
「そういう君こそ最近ぼんやりし過ぎじゃないの?」
「違いない」

 少し困ったように笑いながら腰を下ろした龍馬が傍付に酒を頼む。
 一瞬むっとしたものの、私の視線を感じると傍付は下がっていった。

「何で来たの」
「まあ月が綺麗だったからな」
「……そういうのは花に言うべきことだよ。
 私に言っても何の意味も無いでしょ」
「そりゃあそうだが、いや、何だ。
 そろそろきちんとお嬢の話をしておこうと思ってな」
「…………そう」

 気持ちの整理はつけるべきだろう。
 君と別れた後、皆が向けた無言の非難を思い出す。

「お嬢のことを思って手を離したのはわかるが、
 本当にそれでよかったのか、帯刀」
「……君や高杉ならきっと手放さなかっただろうね。
 それはわかるけれど、出来なかったのだから仕方ないでしょ」
「想う二人が別れたら幸せにはなれんと俺は思うがなあ」
「……私はともかく、ゆきくんはまだ若い。
 いくらでも出会いはあるよ」
「帯刀……」
「うるさいよ。
 迷わず私のもとに残ると言わせることが出来なかった私に非があるんだよ。
 私の力不足を君に糾弾されるなんてね。
 一応私も傷心の身なのに傷をわざわざ抉りに来るなんて、龍馬らしくもない」
「納得がいかんもんは仕方ないだろう」
「君が納得する結末はもう訪れないのなら、
 これ以上の議論はまったくの無駄だと思うけど?
 政務の邪魔だ。帰ってくれない?」

 思わず口からついて出た語調の強い言葉に、龍馬は目を白黒させ、
 悪いと思ったのか潔く頭を下げた。
 その態度に私の怒りも瞬時に醒める。

「帯刀、いや、悪かった」
「……私こそ言い過ぎたね」
「らしくないな」
「そうかもね」

 傍付が持ってきた酒を飲み干しても驚くほど味がしない。
 月を見上げため息をつく。
 そしてふと龍馬に聞いてみたくなった。

「龍馬。
 羽衣の話を知っている?」
「ああ、天女に惚れた男の話か」
「君がもし天女に出会って、羽衣を見つけたらどうする?」
「どうするって何だ」
「まあ、酒の席の戯れに少し考えてみてよ」
「俺か?
 ……俺だったらどうするかな。
 羽衣を預かって、残ってくれと天女に拝み倒すかな」
「君は羽衣をどう始末する?」
「まあ、そうだな。
 元はといえば天女のものだろうし、勝手に捨てるわけにもいかんだろうな」
「本当に好きで離したくなくても?
 それさえ無ければ天女は天に帰らず自分の傍にいるしかない。
 それでも羽衣を捨てたりしない?」
「……そんなことをしたって無駄だろう。
 縁が無けりゃあ、一緒にはいられないさ」
「……そう」

 龍馬らしい答えだな。ひっそりと笑い杯の酒を飲み干せば、
 龍馬は何か気付いたように頭をかき、ため息をついた。

「…………はあ、そうか。
 帯刀は捨てられなかったんだな」
「馬鹿みたいだと自分でも思うけれどね」
「それだけお嬢に本気で惚れてたってことなんだろ」
「……簡単に言ってくれるね」
「まあ言うだけなら簡単だからな。
 お嬢も帯刀を好いていたと思うんだがなあ」
「そうだね。
 好きだけど、この世界を選べないと彼女は言っていたよ」
「そう言われちまったのか」

 はーっとため息をつくと、龍馬は杯の酒を煽った。

「お嬢には一等幸せになって貰いたかったんだがなあ」
「なるよ。
 彼女には誰よりも幸せになる権利があるでしょ。
 彼女が救った世界で、不幸になるなんて。
 そうなったら私は龍神を恨むよ」
「違いない」
「こんな満月に帰ったかぐや姫みたいに、
 全部この世界のことを忘れてしまったとしても、
 ゆきくんには幸せでいて欲しいね」
「翁は忘れられずに嘆いてたって言うのにか」
「天上の世界には嘆きも苦しみも無いって言うでしょ。
 本当はそんなことはないかもしれないけど、そう信じていたいんだよ」

 精一杯の私の強がりに龍馬はため息をつくと、
 まあ飲もうやと杯に酒を注いだ。


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