君と私の時差は9時間。
コーヒーメーカーのスイッチを切り、カップに注げば、薫り高い湯気が鼻を掠めた。
私が朝を迎えているのに、君はまだ夜の中。
時差、などという概念はあの時代にはない。
時差というのは同時に、物事を把握できる現代だからこそある概念なのだろう。
……最も、あの時代にも東洋と西洋の間に時差はあったのかもしれないが。
数時間どころか数年、数十年、時に数百年の文化的な『時差』は。
朝七時半。
ニュースを見ればずっとその中継ばかりしている。
他に重要なことなど……ありはしないか。
世界各国の情勢など、数百年に一度の出来事の前では瑣末なのかもしれない。
君もここにいたら、きっと見たがっただろう。
陽が欠けるなど。
馬鹿なと思っていたけれど、実際に見ればその現象に確かに驚いた。
きっとあの時代に起きれば、物怪の仕業、天変地異そのものとして、
民衆は怯え、その騒ぎの収束に心を砕かなければならなかったのかもしれない。
けれど仕組みを知ってしまえばなんてことは無い。
予め知ることが叶うのならば、天変地異はただのイベントに成り果てる。
知とはやはり力なのだと思い知る。
「……こういうものを見て驚かないのは、私も『現代人』ということなのかな」
そう言えば、受話器の向こう側で君はくすりと笑った。
「帯刀さんはもう立派に現代人ですよ。
携帯電話もパソコンも使いこなしているし、
運転免許だってとったじゃないですか」
「そうだね。
まあ、愛しい君に頻繁に会えない事以外にはこの世界の暮らしに不満は無いよ?」
「すみません」
「ゆきくん。君が謝る必要はないよ。
君に会いたいという気持ちが私の可能性を広げているのだから、ね」
見上げれば薄曇の中、太陽と月は完全に重なり文字通り金の輪になっている。
君と私の時間は重なり合ったと思っていた。
けれどまだ、そうでもないらしい。
君はまだ勉学の徒。道筋も半ばだ。
君の成長の邪魔はしたくは無い。
日々綻ぶこの美しい花を愛でる権利は誰にも譲る気は無かった。
「神秘的で綺麗なものだね。君にも見せてあげたいね」
「……わたしもこっちで中継で見ていますよ?」
「……君は時々情緒に欠けるね。
一緒に見ることにこそ意味があるとは思わない?」
「……そうですよね」
「だからといってこの為にだけ帰国しろなんて非合理なことは言わないよ。
でもこれだけは約束させて」
「なんですか?」
「……今から十八年後、同じものが北海道で見られるらしいね。
それは必ず君と一緒に見たいと思うのだけれど、……どう?」
君は即答しない。
本当に君は思い通りにならないなと、ひっそりと苦笑いする。
向こう側で躊躇いがちに君は答えた。
「それはふたりきりでってことですか?」
「まあそうしたいけどね」
私と二人はそんなに嫌か。
都くんをそんなに誘いたいのか。
見上げた太陽は少し厚い雲に隠れてしまっている。
落胆を堪えきれずにため息をつくと、
「帯刀さん、どうしたんですか?」
「……ゆきくん。たまには良いと即答してくれてもいいでしょ」
「でも……」
「何」
「……十八年後だったら、きっとふたりきりじゃないと思います」
「!!」
消え入るように言った君は、照れているのだろうか。
いつものように、耳まで赤く染めて俯いているのだろうか。
記憶の中の君につられて私の頬も赤く染まった。
そう、十八年後なら。
きっと君と人生を共にする約束を果たし、家族も増えているのだろう。
思い通りにならない上、君は私を動揺させるのが得意だ。
情けないとも思いつつも、君がくれる喜びを
素直に受け止められる自分でありたいとも思う。
「君はどうしてそう……可愛いことをさらっと言うの」
「!!
……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。
まったく君は私を揺さぶることにかけては天才だね。
そうだね、もし家族が増えていたとしても、
君と一緒に見上げたいと思う。……約束してくれるね?」
「はい」
見上げた太陽と月のぴったり重なり合う時間は終わり、
わずかにずれた金の輪がずれ、まるで指輪のようだった。
十八年後、私たちは揃いの指輪をしてこんな風に見上げるのだろうか。
今よりも二人の時間がずれていないと良いのだけれど。
薫り高いコーヒーを口に含んで弱気を払う。
「帯刀さん。今度はいつ会えますか?」
まったく、君には弱っている私が見えているの?
珍しくそんなことを口にした。
「……次にそちらに行くのは二週間後かな」
「楽しみにしていますね」
「ゆきくんの手料理は美味しいから、楽しみにしているよ。
都くんが嫌がったとしてもそちらにお邪魔するから、いいね」
「はい」
くすり、と君は笑う。
私はこれから一日が始まるけれど、君はこれから夜を迎える。
ずれた時間がもどかしいけれど、世界が別たれるほどではない。
おやすみ、ゆきくん。
そういえば、ゆきくんはおやすみなさいと通話を切った。