THE LAST SLICE
−3−
昨日のバレンタインデーに結局将臣は帰ってこなかった。
奇跡が起きたのに帰ってこなかった。
奇跡とは勿論望美のガトーショコラ。
基本譲は最後のオーブンの温度調節と焼き時間の調整をしただけ。
あとは全て望美が作った。
有川家と春日家では奇跡が起きたと評判の望美のガトーショコラ。
最後の一切れが静かにテーブルに載っている。
むっつりとそれを眺めてみても、勿論それは何も言わない。
いっそ食べてしまおうか。
望美は怒るだろう、詰るだろう。
どれだけの気持ちが篭っているのか隣で作っているのを見ていたのだ。
嫌と言うほど思い知らされている。
でももしこれを食べたら。何か奇跡が起こるんじゃないだろうか。
例えば今兄に向いている気持ちが自分に向いてしまうくらいの奇跡が。
初めて成功した、生まれて初めてうまく焼けた最初の一皿。
それがもし将臣の口に入らなかったら。
……もしも。
いくら考えたって二人の気持ちはしっかり結ばれてしまった。
それだって隣で嫌と言うほど見せ付けられてしまった。
隣同士に同じ歳で生まれ、一緒に育ち。
時空をこえて、三年の月日に隔てられ引き離され。
あまつさえ源氏と平家という因縁に引き裂かれても結びついた二人だ。
時空をへだてて分かれる今ですら見えない糸が二人を結び付けている。
隣にいたのにどうにもらなかった。
あれほどの障害を乗り越えた二人だ。……もう勝ちが見えないのはわかっている。
でも、だからこそ望美を待たせる将臣が赦せない。
将臣には将臣の義理があり矜持があり事情がある。それをどうこう言うつもりはない。
望美はそんな将臣だから惹かれた。だから今も帰りを待っている。
でも、望美に元気が無い。笑顔に力が無い。
それを見るのが譲は辛い。笑顔を取り戻せない無力な自分も憎い。
そんな顔をさせて待たせていることを知らないのは赦せなかった。
もし、まだ時間がかかるのなら。
この想いの込められた最後の一切れ、もしそれに間に合わないようなら。
知らないからな。
譲はじっとケーキを睨む。
頑張ったのに奇跡は起こらなかったと望美の落胆は大きかった。
今日はひとりにしてほしいと言われて先に帰ってきた。
先輩は無事に家に帰ってきただろうか。
譲が玄関へ向かおうとしたその時、ガチャリとドアが開いた。
「おう、譲ただいま」
振り向くとそこには将臣が17歳の姿で立っていた。
何事も無かったように。
あまりに普通にいることに譲は腹立ちを覚えて応えない。
将臣は気にしない風でテーブルの上を見る。
「おっ、ガトーショコラ。譲、お前が作ったのか」
何気なくひょいとつまんで食べようとする将臣に思わず譲はカッとなり、
将臣からそれを取り上げて、大事に大事にもう一度テーブルへ戻す。
それはある意味いつもの習慣で別に将臣が悪いわけじゃない。でも怒りは止まらない。
「それは兄さんのぶんじゃない」
「最後の一切れっぽいじゃねえか、じゃ俺が食べたっていいはずだろ。
それより久々に帰ってきてそれはねえだろ」
「お帰り兄さん……とでも言えば満足か?」
「やけにつっかかるな」
「今日何日だかわかってるのか」
「2月15日だろ」
「先輩は何も言わなかったのか?」
「何が」
望美は健気に何も言わずに将臣を出迎えたのだろうか。
あんなに待ちくたびれていたのに笑顔で。
昨日の落胆を隠して。……巡り合えた喜びが全てを押し流したとでも言うのか。
望美が赦しても、譲にはそれが赦せない。
当たり前に奇跡を享受できる将臣に。昨日の落胆も努力も何も知らずに。
「兄さんにこれを食べる権利はない」
「最後の一切れなら、俺の分だろ」
「……今日は何日だかわかってるのか」
「なんだよ、2月15日だろ」
「これは先輩が兄さんに作ったんだ!何度も何度も練習して!
初めてうまくいったケーキなんだよ。うまくいったらきっと兄さんが帰ってくるからって!」
「!!
そうかバレンタイン……」
ハッとした将臣の胸倉を掴んで壁に叩きつける。
完全に油断していた将臣はなすがままになっていた。
「昨日な、先輩泣いてたんだぞ。折角うまくいったのにやっぱり帰ってこれなかったって。
食べてもらえなかったらどうしようって!!
待ってても帰ってこなかったらどうしようかって!!」
「一日間に合わなかったのは不可抗力だろ、俺のせいじゃねえよ」
「だとしても謝ってこいよ。先輩に。待ってるのが平気なわけ無いだろ!!
先輩はずっとずっと待ってたんだからな。毎日毎日屋上で」
「……」
「それだけが最後の一切れじゃないんだぞ。
帰ってくるかもしれない兄さんの為に、クリスマスケーキもおせちもみんなちゃんと残して。
がっかりしながらみんなで食べたんだ。謝れ」
「悪かったよ」
「謝るのは俺にじゃないだろ」
腹いせにもう一度壁に叩きつけて将臣を放した。
大きく咳をする将臣に一瞥をくれて台所へ行く。
後ろでばたばたと駆けていく音がした。
結局賭けにもならなかったな。テーブルの上のケーキを見やる。
自分が全てのお膳立てをしてしまったような気すらなり眩暈がする。
今こうやってお湯を沸かして茶を入れているのだってお膳立てだ。
ケーキの焼く手伝いに、種明かしに、焚きつけるのすらやってやって。
あとは二人で勝手にやってくれ。
二人分の紅茶は食卓に。自分の分はマグカップに入れ、自室へ向かう。
きっと二人でこれから初めてのバレンタインデーの仕切りなおしをするのだろう。
それを直視できる気はしない。
二階へあがったところで玄関の戸があき、二人の声が聞こえてきた。
望美の嬉しそうに弾む声。
久々にそんな声を聞いて嬉しいと思う反面それは将臣の存在があるからかと思い知らされる。
でも結局望美の笑顔が見たいのだ。
それが自分に向けられたものでなくても。
せいぜい見せ付けて早く自分に諦めさせてくれよな。
二人の邪魔をしないように静かに自室の扉を閉めた。