それをはいているのぞみちゃんはとてもかわいいと思っていた。
いつもののぞみちゃんも可愛いけれど。
何だか違う感じで、そう、守ってあげたくなるような。
別に走らなくてもいい。
ゆっくりと、なんか違う遊びでもいいのに。
兄さんは、どんどん走っていってしまう。
あっ、泣いてしまう。
そう思った時にはのぞみちゃんの瞳からは大粒の涙があふれていた。
ぼくがまもってあげたかったのに。
どうしていいのか、よくわからなかった。
あんなにのぞみちゃんは喜んでいたのに。
そのサンダルをはくことは、もう二度と無かった。






向日葵の向こう側





「今日も暑いな」

 流れてくる汗をタオルで拭う。
 水撒きしていたら、伸びてきた向日葵の向こう側におばさんと連れ立って出かける貴方が見えた。
 貴方は俺に気付くとひらひらとちいさく手を振ってくれた。
 俺もちいさく手を振り返す。
 そのぎこちなさに、となりを歩いていたおばさんはくすり、と笑った。
 確か、今日はおばさんと出かけるって楽しみにしていたな。
 今日は試験休み。
 本当は貴方と一緒にいたいけれど。ずっと一緒にいるのは難しい。
 上に向かって水を撒けば、一瞬鮮やかに虹がかかった。
 きらきらして、まるで貴方みたいだ。
 貴方には見えただろうか。

 さぼっているわけではないけれど、少し気を抜くと庭が荒れてしまう。
 まだ梅雨が明けきっていないから、水撒きは毎日やらなきゃ
 いけないわけではないけれど。
 育てている野菜はやっぱり生えてくる雑草で弱ってしまう。
 こうしてきちんと手入れをしておかないとな。
 空を見上げれば、ピカピカした青い空。
 まだそれほど大きくはないけれど、夏っぽい雲が空に浮かんでいる。
 もうすぐ誕生日。
 二度目の17歳の誕生日。
 あちらで一度17歳になって皆に祝ってもらえたことが懐かしい。
 もう一度だなんて少し不思議だ。
 けれど今度は貴方に祝ってもらえるのだとしたら。嬉しかった。
 貴方と少しだけ同じ歳でいられる時間がやってくる。
 貴方はどう祝ってくれるんだろうか。……その、俺の誕生日を。
 特に何をしてくれなくてもいい。
 ただ傍にいてくれれば。
 貴方のピカピカの笑顔が見られれば俺は何もいらなかった。
 一番近くでそれを見つめていることができれば。充分だ。
 いってらっしゃい。
 じゃあね、と笑顔を向けて駅へ向かった貴方の背中をもう一度見つめて、
 俺は庭仕事に戻った。
 淡々と仕事をこなしていくのは嫌いじゃない。
 何度か休憩を入れつつ進めれば、だいたいこんなものかな、と思える程度までは
 作業を進めることが出来た。
 シャワーを浴びて、汗だくになったシャツを着替る。
 汗を洗い流した後の乾いたシャツは肌にとても気持ちいいと思う。
 髪をタオルでふき、扇風機の前に座る。
 ……ドライヤーを使わなくても髪はすぐに乾くだろう。
 そろそろ貴方が帰ってくる頃かな。
 そう思ったら携帯電話の着信があった。
 この音はメールだ。
 ディスプレイを見れば、貴方からのメールが来ていた。

『帰ってきたんだけど、行ってもいい?』

 どうぞ、とかえせば。インターフォンが鳴った。
 歩き回って疲れただろう。梅シロップを炭酸で割る。
 貴方はいつものように、縁側にすわって庭を眺めた。
 疲れたように背伸びをする貴方に、俺は梅ジュースを手渡す。

「疲れたんじゃないですか?」
「うん。バーゲンだったから人が多くて」
「何だか嬉しそうですね。
 いい買い物、出来たんですか?」
「えへへ」

 貴方は満足そうな笑顔を向けて、ジュースをひとくち飲んだ。
 カラン、と鳴った氷の音に涼しさを感じる。
 高すぎる湿気なんて、蒸すだけだいいことなんてない、と思うのに。
 貴方のグラスから落ちた雫が綺麗だな、なんて見とれてしまう。

「おいしい」
「そうですか?」
「今年も作ったんだ」
「……ええ。梅がたくさんなったので。
 いつものように梅ジュースと、梅酒と、梅干。今年もつけました。
 梅酒は母さんの、梅干は父さんのリクエストだから仕方ないですね」

 梅ジュースは貴方の為だったけれど。それは心の中にしまっておく。
 庭になる梅を毎年漬けていたのはおばあちゃんだった。
 おばあちゃんが死んだ年、誰もどうしていいのかわからなかったから。
 熟した梅は多くが、地に落ちてぐちゃぐちゃになってしまった。
 おばあちゃんは毎年楽しそうにその梅を漬けていたのに。
 次の年もまたこうして、梅は落ちてしまうのか。
 おばあちゃんの思い出を無くしてしまいたくなくて、残っていたメモと、
 思い出を頼りに俺がそれを引き継ぐような形になった。庭の手入れと共に。
 おばあちゃんの味。ちゃんと受け継げているかな。
 手の中に在るグラスをじっと見つめれば、
 貴方は笑って言ってくれた。

「でも、譲くんのこのジュースおいしいから好きだよ」
「……ありがとう、ございます」

 先輩が飲み干したグラスをカラカラと鳴らしたので、
 もう一杯の催促ですか?と問えば貴方はえへへと笑った。
 もうそろそろ縁側にいたら蚊に刺されてしまう。
 俺の部屋に行きましょうか。促せば貴方は立ち上がりたたたと廊下を走った。
 土曜日何処行こうか?貴方は嬉しそうに俺に問う。
 俺は貴方と一緒にいられれば正直何処でも良かった。
 今年の俺の誕生日は土曜日。
 無理を承知で貴方の一日が欲しいとリクエストしたのに。
 拍子抜けするほど簡単に貴方はいいよ、と頷いてくれた。
 別に何もしなくても、何処にもいかなくても良かった。
 貴方を独り占めできるなんて、俺にとっての最高の贅沢だったから。
 でも、受験生の貴方の夏は、夏期講習と勉強に追われてしまう。
 どうせならちょっと出かけたいな。
 そう言った貴方の願いを勿論叶えてあげたい。
 それが出来る自分が嬉しかった。
 貴方は買って来たのか、雑誌を広げて、ここに言ってみたい、とか。
 ここのがオススメだって友達が言ってた、とか。
 にこにこしながら提案してくれる。
 デートの相談をしているんだな。
 そう思うだけで心の中が暖かくなるのに。
 貴方の嬉しそうな、楽しそうな顔を見ると、
 こんなに幸せでいいんだろうか。と泣きたいような気持ちになった。





 譲くんが笑う顔を見るととても幸せな気持ちになる。
 笑ってくれると嬉しい。
 無表情、というわけでもないし結構感情が顔に出るほうだと思うけれど、
 なかなか笑ってくれない。笑っていて欲しい。いつでも。

 すきなひとには。

 考えるだけで照れくさくて、あんまり意識したくないけど。
 こうやってデートの相談をしていると、
 ちょっと叫び出したいような気持ちになってみたりして。
 テンションが高いなって自分でもよくわかる。
 ずっと一緒にいたから。
 一緒にいるとこう……しっくりもくるんだけど、
 不意に譲くんが男の子だなって思うとどきどきする。
 穏やかとどきどきと、どっちかにして!と思うけれど、
 そんな気持ちになるのは譲くんと一緒にいる時だけだからいいんだ。
 きっと、そうなんだ。
 ……たぶん。
 さっきも譲くんがジュースを飲み干したとき、喉仏が動いて。
 ああ、男の子だなって見とれてしまった。
 一緒に雑誌をこうして覗いていると、譲くんからミントの匂いがした。

「あれ?譲くん。なんか匂いするよ?」
「……変な匂いですか?」
「ううん?ミントの匂い」

 譲くんはああ、という表情をして無造作に髪をかきあげた。

「さっき風呂に入ったんで、シャンプーの匂いだと思いますよ」
「そっか」

 よく見れば譲くんの髪は半乾きで、いつものさらさらした感じとは違う。
 男の子のシャンプーなんて知らない。
 普段使ってるシャンプーとかリンスは花とかフルーツの匂いだから。
 こんなすうすうする匂いなんて知らなかった。
 さっき向日葵越しに、背の高い譲くんが見えたとき。
 ああ、背が伸びたなあって思った。
 かくれんぼで向日葵の向こう側に隠れたこともあったのに。
 まだ伸びるのかもしれないけど、向日葵と同じくらいの背の高さ、だなんて。
 茎や葉の向こう側で庭に水を撒く譲くんに一瞬どきっとした。
 譲くんの撒く水に虹がかかったから。
 お母さんに促されて、駅まで歩いたけど。
 少しぼうっとしていたのはきっと暑さのせいだけじゃないんだと思う。
 だからなのか。
 お母さんにニヤニヤされて気恥ずかしかったけど、
 いつもは買わないような服や靴を買ってしまった。
 お母さんにはバーゲンの勢いだもん!って言い訳したけど、きっとバレていると思う。
 譲くんとお出かけするときに着たい服だって。
 そんなに派手じゃないし、そんなに女の子っぽい服でもないけど。
 いつもよりちょっと甘めの可愛い服。
 サンダルは軽くて好きだけど、ミュールはちょっと歩きづらいから敬遠してた。
 でも、ちょっとその華奢なデザインが可愛く見えて。
 バーゲンだから!と思って勢いで買ってしまった。
 勢いで買って帰ってきたけど、家に帰ってそれを眺めてちょっと呆然としてしまった。

『わたし……譲くんに可愛いって思ってもらいたいって思ってたんだ』

 そう気付いて、自分で驚いた。
 時間がたつほど自信が無くなっていく。
 本当に似合うのかな?着こなせるかな?
 譲くんはこういうの、どう思うのかな?
 何か媚びてるみたいで、わたしらしくないのかな。
 でも、喜んでくれたら嬉しい。
 引き出しを開けて、しまってある箱を取り出し、中を見る。
 譲くんがくれたペンダント。
 うまくいきますように。ちょっと願いを込めて蓋を閉じ、そっとしまった。





 この日の為に、ではないけれど。
 新しいシャツを羽織って、貴方の家のインターフォンを鳴らした。
 一応時間通りだけれど。貴方の用意は出来たのだろうか。
 別に貴方を待つのは嫌いじゃない。
 扉が開いて、おばさんが顔を出した。

「あら、譲くん。ちょっと待ってね」
「おはようございます」

 望美!譲くんが来たわよ!
 はーい。と貴方の声がした。
 たたきを見れば、華奢なミュール、というのだろうか。
 ストラップなしの、少し細い高さのあるヒール。
 いつも貴方が好んではくような歩きやすそうなデザインのものではないのは
 見ただけでわかった。
 階段を降りてきた貴方は、新しい白いワンピースを着ていた。

「おはよう。譲くん」

 ぼうっと見とれていた俺はその声で我に返った。
 少しレースの飾りがついたシンプルな白いワンピースはよく貴方に似合っている。
 じゃ、よろしく。
 いつものように手渡された小さな箱には俺の贈ったペンダント。
 華奢な銀色の鎖に、涙型のムーンストーン。
 何度かそうしているのに未だに慣れない。
 緊張で少し震えた指が、一瞬首筋に触れたら貴方はくすぐったそうに笑った。
 なんとかチェーンを留めれば、準備完了。
 貴方はミュールを慎重にはいて、じゃ、行ってきます。と声をかけて家を出た。
 少しよろけるようにして歩く貴方の姿にふいにちいさかった頃の貴方が被った。
 俺の小さな後悔と共に。


 ちいさかった頃の貴方が目に浮かぶ。
 貴方はサンダルで走れないことを悔しがって、もうはかないと泣いていた。
 どうして、貴方はそれを選んだんだろう。
 じっと見つめれば、足元はきちんとペディキュアも施されている。
 よく見れば左足の小指のピンク色の透明のエナメルが少しはみ出していた。
 貴方はそういうのを塗っているのを見たことが無い。
 頑張ってくれたんだな。じんと心が温かくなった。

「……変、かな」
「良く似合ってますよ。
 こんなにおしゃれしてくれて、その……凄く、嬉しいです」

 えへへ。
 貴方は鼻の頭を赤くして笑った。
 華奢なサンダルの足元は覚束なくて見ていてハラハラする。
 手を差し伸べれば、貴方は躊躇いなくつかまってくれた。
 貴方がこういう格好をしてくれたのは、つまり、その。
 そんなに深くは考えてはいないだろうけれど。
 でもきっと俺を頼りにしてくれていると……解釈してもいいんですよね、先輩?
 貴方の足元が危なくないようにこうやって細心の注意をはらって、
 時々よろける貴方の手をとって、いつもよりゆっくりと歩く。
 貴方を守らせてもらえている実感が湧き、幸せが込み上げてきた。
 貴方の傍で守ることが許されるのか。
 かつて何も出来ず、貴方を守れなかった俺が、それを出来るようになったことが
 どれだけ幸せなことか、貴方にはきっとわからないだろう。
 手を繋ぐことも、微笑みあうことも許された。
 それだけで充分幸せだと思っていたのに。
 貴方を守ることが許される日が来るなんて。
 いつかそんな日が来たらいいと思っていたけれど、……本当にそんな日が来るなんて。
 俺のためにおしゃれしてくれた貴方。
 貴方の中で俺を『そういう対象だ』と認めてくれたことが俺にとっての
 一番のプレゼントなんですよ。
 きっとこんな話をしても貴方にはわからないな。

 ありがとう。
 貴方の存在が俺に力をくれるんです。
 俺の誕生日を祝ってくれたように、貴方の誕生日を祝って。
 ずっとそうして一緒にいられたら。
 貴方の存在が俺の幸せ、そのものなんですよ。
 ありがとう。
 今度はそう口に出して言えば、貴方は笑って。
 今日はまだこれからだから。楽しもうね。
 そう言ってきゅっと握った手に力を込めてくれた。


背景画像:空色地図

お気に召していただけたらぽちっとして頂けると幸いです