破鏡不照



 −2−


宇治川で出会った白龍の神子である望美ちゃんとその八葉である譲くん
……そして白龍を邸に迎え入れて暫くになる。
白龍の神子に、白龍、か。
オレたち兄弟はよっぽど龍神に縁があるらしい。
龍神という響きに、忘れてしまいたい記憶が蘇る。
白龍は黒龍の対。
気の性質は正反対なものの、確かに面影があった。
本当はあの哀しい記憶からすべて朔を遠ざけてやりたかった。
愛する存在を失って抜け殻のようになった朔。あんな姿はもう見たくはない。
けれど白龍の神子と黒龍の神子は対の存在なのだという。
色々と思い悩み、沈み込んでいることの多かった朔がいそいそと世話を焼き、
徐々に溌剌さを取り戻していくのを見れば、その出会いに感謝してもしきれなかった。
望美ちゃんは庭で今日も剣の稽古。
源軍の軍奉行の俺なんかより、ずっと立派な覚悟をしていて、
オレには少し、彼女が眩しかった。
ただの朗らかで明るいだけの女の子じゃないというのは朔と並んでいると良くわかる。
朔を見守ることしか出来なかったオレ以外にはあまりわからないかもしれないが、
あの子も何か大きな悲しみを抱えているのだと、たまに透けて見えることがあった。
だから、その明るさは朔を傷つけることはない。
悲しみをまだ知らない同じ世代の女の子の明るさは、時に朔を傷つけた。
その子たちには何も悪気がないことが、より朔を傷つける。
けれど望美ちゃんの明るさは悲しみを乗り越えたその強さの先にあるものだから、
朔は素直に惹かれているんだろう。
朔と望美ちゃんは出会ったばかりなのにもう親友のように仲が良く。
朔の笑い声や明るい声を久々に聞けてオレは嬉しかった。
抜け出せない澱みや暗さのあったこの邸の中に暖かさや、明るさが戻ってきたと思う。
明るくて、朗らかで、ただいるだけでその場が華やぐような望美ちゃん。
しっかりとしていながら、どこか危うげな譲くん。
すんなりとこの邸に馴染んでしまった望美ちゃんとは違い、
譲くんは恐縮し、遠慮しっぱなしだった。
そんなたいそうな邸でもないのだからもっとくつろいでくれてかまわないよ、そう言っても。
ご厄介になっているばかりではいけませんから、と色々な雑用などをしたがった。
自分の家に帰ることの出来ない彼等に少しでも安らいで欲しかった。
オレたち兄弟は二人とも好きになっていたから。
譲くんは宇治川で望美ちゃんを庇って傷を負った。
冬でよかったのかもしれない。
寒さで痛みが増しても、傷が膿むことはなかったから。
経過は順調のようで、朝、弓の練習を欠かさず行っている。

的には綺麗に当たるんだけどな。

動いているものを射るのは難しいとは言え、あの日彼は明らかに躊躇っていた。
初陣だったのだから仕方がない、そうは思っても、
このままずっとそうであったとしたらそれは問題だ。
けれど、どう切り出せばよいのだろう。
オレは人を傷つけることへの躊躇いはとうに無くしている。
けれど、出来ればそんなことからは遠ざかりたいという気分はある。
そんなオレが彼に何を言えるというんだ?躊躇いながら時間は過ぎていった。
暫くして、譲くんが庭を整えたいので、その許可を貰えないかと言ってきた。
別に整えることは悪いことではないから、別にいいよと答えれば、
譲くんが庭弄りに精を出す姿を頻繁に見るようになった。
彼だって何かやれることを探していたのだろう。
のんびりしていていいよと言っても、彼はそれが楽にできる性分ではないようだった。
確かに彼の弓の腕は筋はいい。
けれど彼は人の命を奪うことに躊躇いがあった。
望美ちゃんや譲くんの元来た世界は、平和で、人と人が傷つけあうことが
頻繁におこることがないようだった。
真剣を持っているだけで、罪であると咎められてしまうのだと
譲くんは大真面目に言っていた。
ジュウトウホウイハン……と言っていただろうか。
ではこの陰陽道の術式を操る為の銃ですら咎められてしまうのかい?そう問えば、
そうだと言っていた。
この銃が無ければオレは色々と困るんだけどなあ。
そう茶化して言えば、朔は非難したけれど、二人は笑ってくれた。

今日も彼は庭弄りに精を出している。
朔が言うに、譲くんは料理もうまいらしい。
今はまだ謙遜して味付けなどはしないというけれど、
自分よりもずっと上手だと朔は苦笑いしていた。
剣の稽古に励む望美ちゃん。
弓の稽古を欠かさずにやってはいても、庭弄りのほうが好きであろう彼。
……そして染み一つ無く洗い上げた洗濯物を干すことに至福の喜びを感じるオレ。
オレだって人の命を奪いたくて奪っているわけじゃない。
そうしなくていいのなら、戦に出ることなくずっとこうして家にいたい。
彼も、同じか。
ひとりごちてひっそりと笑う。
泥に塗れることも躊躇わず、彼はせっせと庭を整える。
だんだんと庭の雰囲気が変わってきた。
少し荒れていた庭が整うと、眺めたときにやはり気分がいい。
手馴れたその手つきで彼はそういうことが好きなのだとわかる。
この邸の澱んだ空気が払われ、気の流れが整っていくのは譲くんの働きも大きいのかもしれないと、
ふと思った。
彼は意識しているわけではないだろうけれど、それもきっと望美ちゃんの為なのだろう。

「彼は、今日も庭仕事ですか」

いつのまに立っていたのだろう。
隣に弁慶が立って、彼を眺めていた。
九郎の軍師として、軍奉行のオレに用があっただけじゃなく、
彼の背中の傷の経過を診に来たのだろう。
すぐに無理をする彼を叱咤しつつ、気落ちしないようにする
その手腕はいつも流石だと関心させられる。

「うん、そうだね」
「そして景時は、今日も洗濯ですか」
「やっぱり綺麗にするとさっぱりするじゃないか〜」
「君が落としたいのは血の匂いでしょうに」
「……まあ、それは、そうなんだけどね〜」

ぼりぼりと頭をかき、気まずそうに目を逸らしたオレに、
弁慶はそれ以上の追及はしないでくれた。

「……君と彼が対だと言うのはなんとなくわかる気がしますよ。
……。
まあ、いいでしょう。
彼の経過はどうですか?また無理していませんか?
無理をするな、とは言えませんが。それでは傷が治りませんので」
「おとなしくしているんじゃないかな。
望美ちゃんを守れなくなったら困るって一番自覚してるのは譲くん自身だし」
「それもそうですね。
でも守るだけではない、もう一つの覚悟もそろそろ決めて欲しいですね」

弁慶は穏やかな顔をして草木の世話をする譲くんに、鋭い目線を向けた。

「……それは軍師としての意見かな」
「それもありますが、共に戦う八葉としての希望でもあります。
共に戦うのなら、信頼したいと思うのは当たり前ではありませんか、景時」
「……まあ、それはそうだね」
「覚悟が出来ないのなら、望美さんを守りたいと願っても、
戦に同行させるわけにはいきません。
でも、それでは八人で輪を成して龍神の神子を守られなければならない
八葉の一角が崩れることになる」
「……彼にその覚悟を強いるのは残酷だと思うけどね〜」
「彼にその覚悟を強いず、彼に変わらずにいて欲しいと願うのは、
君の願望でしょう、景時」
「…………」
「君の気持ちはわからなくもないですが、
守りたいものがある以上、覚悟は必要なんです。
守りたいものが守れなかった時、傷付くのは彼自身です」

誰よりもその覚悟があるのは君だろうに。
静かな目線を譲くんに向ける弁慶を見れば、弁慶は苦笑いした。

「……まあ、それはそうかもしれないね」
「身を挺して彼女を守る気概は評価したいですが、
身を挺して守るばかりでは命を落とすのは彼自身です。
僕は彼に死んで欲しくはないんですよ」
「それはオレもそうだよ」
「だから……彼に預けようかと考えています」
「誰に?」

一瞬ぽかんとしたオレに弁慶はからかうような笑みを浮かべた。

「那須与一ですよ」
「ああ、那須の……ってええ?」
「確かに九郎とは相性が悪いですが、彼なら那須与一ともうまくやれるでしょう。
基礎はしっかり身についているようですし、変な癖も無い。
礼儀正しい素直な良い弟子として受け入れてもらえると思いますよ?」
「弁慶、それは言いすぎじゃあ……」

オレが弁慶をたしなめようとした時、
譲くんはオレ達の視線に気付き、会釈した。

「譲くん、傷の経過を診に来ました。診せてもらえますか?」

そう弁慶が声をかけたので彼はこちらまで歩いてきた。
譲くんの部屋へあがり、傷を見る。
流石に若いだけあって傷の治りが早い。
醜く抉れた痕は残るものの、傷自体は塞がっているようだった。
弁慶は丁寧に糸を抜き、譲くんに薬を渡す。
譲くんはありがとうございます、と丁寧に頭を下げ、着物の乱れを直した。

「君に話があります」
「はい、なんですか?」
「言い難い話ではあるのですが、どうか聞いて下さい。
……譲くん、君は確かに弓をうまく使えます。
弓を射るだけならきっと九郎よりもこちらの景時よりもきっと上手だ。
けれど、君には足りないものがあります」
「……弁慶」

オレは性急に話を進めようとする弁慶を一瞬たしなめようとしたけれど、
当の譲くんがその先を促した。
何を言われるのか察しがついているんだろう。

「……話を続けてください」
「譲くん」
「いいんです。景時さん。きっと必要なことなんですから。
弁慶さん、続きをお願いします」
「……ありがとう。
君は望美さんを守りたいんでしょう。
身を挺して守る覚悟はもう出来ている。この傷はその証拠です。
それは疑ってはいません。
けれど君に足りないものがあります。それは」
「人を射る覚悟でしょうか」

遮るように素早くそれを口にした譲くんの瞳は虚ろに揺れていた。

「……察しが良くて助かります」
「弁慶!」
「いいんです、景時さん。……わかってましたから」
「望美さんに対して僕は何の心配もしていないんです。
彼女にはもう覚悟が出来ているから。
彼女は彼女の守りたいものの為に剣を振るう覚悟が出来ている。
けれど、君はまだそれが出来ていない。
……その覚悟が無いまま戦場に出すわけにはいかないんです。
君の躊躇いが望美さんを、僕たちを危険に晒すことになる。
だから、もし君が望美さんと共に行きたいと願うなら。
君を、那須与一に紹介しようかと思っています」
「那須……与一。
弓の名手、ですよね」
「彼がきっと君に戦場で弓を引く覚悟を教えてくれるでしょう」
「……少し考えさせてくださいって言おうかと思いましたが、
きっと答えは変わらないと思います」

譲くんは一瞬遠くを見るような目をして、
息を吸い込み……弁慶を真っ直ぐに見つめた。

「……ご紹介をお願いします」
「譲くん、いいのかい?」
「俺は八葉ですから。
……八葉は欠けてはいけないと白龍も言っていましたし、
それに」

それにに続く言葉は、望美ちゃんの傍にいたい、か。
それとも望美ちゃんを守りたい、か。
譲くんは一瞬言葉を飲み込んだけれど、オレにも弁慶にもそれは伝わっていた。

「皆さんの力になりたいですから」

晴れ晴れとした顔で譲くんは答えた。
君は覚悟を決めてしまうのか。
それも望美ちゃんへの想いゆえに、か。
……若いな。
ひっそりと笑ったオレを弁慶は苦笑いした。

「ありがとう。
では景時、紹介状をお願いしますね」
「御意〜、ってオレ?
オレが書くの?九郎が書くんじゃないの?」
「……九郎の紹介状で、那須与一は動くと思いますか?
九郎が紹介状を書いてくれるとも思えません」
「あー、うん、まあ、そうだね。
ヘタをすれば譲くんがいきなり悪い印象を持たれて、
稽古どころじゃなくなっちゃうか」
「でしょう?」
「まあ源氏軍の軍奉行は一応オレなんだし、
その紹介状は無下にされたりはしないよね〜」

ぼそぼそと話すオレと弁慶に気まずそうに譲くんは声をかけた。

「なんだか、すみません」
「いや、いいんだよ〜。気にしないで」
「君に無理を強いるのは僕等なんですから、君が恐縮することは無いんですよ。
では、景時、よろしくお願いしますね。
譲くん、きちんと薬は飲んでくださいね。あと、無理はしないように」
「はい、わかりました」
「いい返事ですね。
九郎もそれくらい素直だと楽なんですが」

ここだけの話ですよ、と笑って弁慶は立ち上がり部屋を出た。

「あれ?帰るの?」
「暫く京を離れようかと思っているんです。
色々と調べたいこともありますしね」
「そうか。
……気をつけて、弁慶」
「景時も。
暫く頼みます」

一瞬鋭い目をした弁慶が何を調べてくるのかあまり良い予感がしないまま、
ぼんやりと見送っていたら、譲くんが声をかけてきた。
神妙な顔をしている。

「あの……。
こんなことを聞くのは、失礼かもしれませんが、
……那須与一と九郎さんって仲が悪いんですか?」
「えっ、あっ、そうだねえ。
仲が悪いっていうか……ほら、九郎弓が苦手だからさ。
その辺で察してくれないかな」
「……これ以上は聞かないほうがいい、ということですか?」
「んん、ああ、そうだね。
譲くんは察しが良くて助かるよ〜」

冷や汗をかいたオレを見て、譲くんはくすりと笑うと、
庭を見つめた。
その視線の先には剣の稽古に励む望美ちゃんの姿がある。

「……景時さん、ひとやすみしませんか?
 俺、準備してきます」
「ん、いいねえ」
「じゃ」

譲くんははにかむように笑うとお茶の準備をしに出て行った。
その姿勢の良い後ろ姿を眺める。
お茶の準備が出来たら望美ちゃんに声をかけるんだろう。
君は本当に望美ちゃんが大事なんだねえ。
そんな君の手はまだ血に塗れてはいない綺麗な手。
……君の手に血は似合わないのにな。
そう、思いながら、オレは那須与一への書状の文面を考え始めた。


背景素材:空に咲く花

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