破鏡不照



 −1−


明るい光が満ちた白い部屋はどこまでも清潔で、
病に冒された私自身の穢れを意識せずにはいられなかった。
消毒液の匂いの合間に時折漂う食事の匂い。
すれ違う同じような境遇の人たちの瞳は何処か空ろで、
たまに訪れる見舞い客の残す生きた世界の空気が残酷な程に私達の影を浮き立たせていた。
気遣う大人たちはともかく、子供たちの生気が眩しい。
出来ることなら懐かしいあの家に最後までいたかったけれど、
自宅で生を終えることが自然な死であると認めてはもらえないのなら。
この白い部屋で生を終えるほうがいい。
時折本を読み、それに飽きたら外を眺める。
そして肌身離さず持っていた龍の宝玉を眺める。
変わりなく淡い光を帯び、手に馴染む重さのそれを何度も何度も確かめる。
昔はそれを重いと思ったことはなかったのに、今はそれがひどく重い。
託すに値する人物との出会いは私にとっては幸せなこと。
けれど相手にとってはただの重荷でしかないそれを託していいものか、
私は最後まで迷い続けていた。
窓から見る空の眩しさに目を細め、見下ろせば遠くの公園で子供たちが遊んでいた。
かつて私も少女だった頃。
私はいつか龍神の神子と出会う日に憧れていた。
幼心ではその恐ろしさなど理解できなかったからより純粋に、
龍神の神子にお仕えする日を夢見ていた。
前の代の龍神の神子に仕えた一族のように、一番の理解者として、
友人として神子様にお仕えするのだと心に決めていた。
だからこそ、あの日幼い龍神様の手を躊躇いなく握り、時を越えた。
それが私の役目ではなく、その夢は叶わないのだと知った時、絶望した。
けれど血を残すことも一族の務め。
それを全うできたなら悪い人生ではなかったのだろう。
むしろ、幸せ過ぎたくらいだった。
あの人との出会い、そして別れた後も家族に囲まれて過ごした穏やかな日々。
愛おしい孫、そして神子様とようやく巡り合えた。
この私がこれほど恵まれた人生をおくれたことが申し訳ない。
自分を責め続ける私をあの人は励まし続けてくれたけれど、
将臣と譲……そしてのぞみちゃんに定められた運命は、
普通にこの国の現代に生きる人には想像もつかないほどに過酷だ。
あの日同じように消毒液の匂いの漂う薄暗い廊下で、
産声を聞いた時、どうか女の子でありますようにと祈らずにはいられなかった。
もう男子であるとわかっていても、それでも女の子であったらと
最後まで祈ってみたけれど、譲は男としてこの世に生を受けてしまった。
そしてその時から抗う術もないままに絡め取られてしまった。
星の一族のさだめと、八葉の運命に。

それはただひたすらのぞみちゃんを愛する、ということ。

愛が喜びであるのなら、恋は呪いだ。
囚われれば最後、成就するか否か、その呪いが消えるまで囚われ続ける。
人を愛することは難しいことではない。
人は自然に人を、物を愛することを覚えていき、その喜びに目覚めていく。
人によって重さや温度や形は違っても、人は何かを愛さずにはいられない。
愛し方を間違って、他人や物や自分そのものを傷つけても、
人は繰り返すことで愛し方を学ぶことが出来る。
けれど……恋は違う。
どれほど愛しても求めても、想いが報われるかどうかはわからない。
愛することの喜びが、反転して求められないことへの苦しみに変わる。
その想いの強さが、……与えられる痛みと苦しみにそのまま比例すると
わかっていても人は溢れる想いを止める術を知らない。
そして成就したとしても、その先に幸せが続くかどうかもまた、……わからない。
ただ人を愛するだけでいいのならどれだけ幸せなままでいられるか。
愛する人の不幸を共に受け止め、哀しみ苦しさを共に荷うことはあったとしても、
愛した人の幸せを願うだけいいのなら人はもっと優しくあれるだろう。
でも人は神ではないから、自分の幸せも願ってしまう。
愛した人に、ただ愛されてみたい、と単純で、そして一番困難な願い。
それを望んでしまうのは、罪ではない。
愛すること自体、とてもすばらしいことなのだから。
ちいさな頃から、その眼差しにはもう顕れていた。
流れる血も、その先の運命も神子を愛することを肯定した。
私自身がのぞみちゃんに初めて出会った時に体を貫いたあの喜び。
喜びを受け入れることに疑問を持たない子供はそれを素直に享受する。
二人は呼吸をするように自然にのぞみちゃんを愛した。
ましてやこの子達は八葉なのだ。
神子を愛し守る運命を生まれながらに持っている。
けれど、それは残酷だけれど神子に愛される運命ではない。
どちらかが愛を得れば、どちらかは愛を失う。
それが当然の成り行き。
ましてや神子は八葉と出会うさだめ。
ふたりはそのうちの一人に過ぎない。
……龍神の神子の真の力とは龍神様の力を受けることではなく、
幾多に分かれる運命に翻弄されるその多様性だ。
神子の強い願いと八葉との出逢いで、より良き未来が選択される。
龍神様は無限ともいえる神子の可能性に賭けたのだ。
未来が定まらない波乱に満ちた運命だからこそ、神子を導くものが必要で。
現在の気の流れを感じ、か細い未来を見通すことで、
神子の道を少しでも照らすことができるよう寄り添うために星の一族は在る。
けれど龍神様を感じることが出来ても、私たちに加護は得られない。
龍神様が愛するのもまた、神子ひとり。
八葉だけでなく、龍神様の愛もまた、神子の運命の軌道を変えていく。

けれど運命が神子を愛せと、この子らに言った。

女の愛は愛で買えると台詞か何かで聞いたことがある。
女の心は、愛で支払い、愛で買えるのだと。
その愛の形はさまざまだ。
献身でもいい。
野に咲く花を何よりも美しいと感じたのなら贈ればいい。
金の価値に絶対の信頼をおくものならば、
価値に見合う贈り物をするのもそれもひとつの形だろう。
受取る側がそれに心を動かされたのなら、愛は買えるかもしれない。
愛が、愛によって買えるのならば。
ふたりの愛情は、もうひとり分の愛を買うには充分なほどだった。
……普段あれだけ人の優しさに敏感なのぞみちゃんが、
捧げられた愛情にどうしてあれほど無頓着でいられるのか不思議でならなかった。
見えざる手がのぞみちゃんの目と耳を塞いでいるのだと気付いたとき、
私は将臣と譲を不憫だと思った。
けれど運命を選ぶその時まで神子の恋心はまどろみの中にある。
のぞみちゃんが二人を選ぶのかは、まだわからない。
けれど私は二人どちらかの恋の成就だけを祈れない。
二人がどれほど神子を愛しても、二人の想いが報われることだけを願えない。
……どれだけこの先三人に凄惨な運命が待ち受けていたとしても、
もう帰ることの出来ない故郷を救って欲しいと……そう願ってしまう。
この世界に降り立ったときに見た焼け野原の町並みが、あの世界の未来であって欲しくない。
どれほどこの世界の人を、土地を愛しても。
あの世界を救って欲しいと龍神様に願った日のことを忘れたことはない。
時の狭間でかつてはぐれ、手を離してしまった幼い龍神の心細げなまなざしは、
今でもありありと思い出すことができる。
この世界に来て知ったあの時代の歴史。
三人が落ちるのは戦乱の世。
平家の将になる将臣。
それに敵対する源氏の神子となったのぞみちゃんとそれに寄り添う譲。
譲がせめて女の子であったら、譲は『ゆずる』でなくともよかったのに。
譲は『ゆずる』であることでからかわれたり、物を奪われたりしていた。
どうして譲なんて名前なの?と幼い譲はよく泣いていた。
もし女の子であったなら。
譲は『一番大事なものを譲るその時まで神子に寄り添う者』にならずに済んだ。
『命』も、『恋』も、『未来』も譲だけのものだったろう。
のぞみちゃんの親友として、彼女の恋の応援も幸せを祈ることも、
恋の苦しみを伴わずに、……出来なかった私の代わりにすることができた筈だ。
わたしもかつての星の一族のように、のぞみちゃんと親友のようにありたかった。
遙かなる故郷で、そうなる日を夢見ていた、心待ちにしていた。
だから……譲がもし女の子として生まれていたなら、その願いも託すことができた。
人を傷つける痛みも知らず、将臣とのぞみちゃんの恋の行く末を
応援することも出来たかもしれないのに。
……今更そんなことを言っても仕方がない。
私の人生の旅ももうじき終わる。
帰りたかった故郷よりも、今はあの人のもとに召されたい。
ならば最後に私の使命を果たさなければ。
もし、私の命の種火が尽きて、直接渡すことが叶わなくても。
これは必ず手にしなければならない人物の手に渡る。
そういう性質を持っている。
これは時間と運命を司るもの。人の思いを超えたところにこの宝玉の本質はある。
必ずあの子にこれが渡ることになるのなら、私が直接託したほうがよいのだろうか。
私の願いと共に託せば、あの子たちの過酷な運命が少し違ったものになるのだろうか。
譲が龍の宝玉の本質を悟ったとき、私を恨む日は来るのだろうか。
譲が『譲であること』の運命を呪う日が来てしまうのだろうか。
でも、この龍の宝玉が私にとって命よりも大切な物であったことを知り、
それを託すに相応しいと私が譲を認めていたのだと伝えたい。
譲であるからこそ、私がこの宝玉を『譲る』のだと。
それが心の支えになってくれたなら、私がここに生きた意味も少しはあるだろう。
来てもらった譲を傍に呼び寄せる。
いつも一緒の将臣ものぞみちゃんもいないのを疑問に思ったのか、
譲は怪訝そうな顔で私を見つめた。

「どうしたの、おばあちゃん」
「……譲。前に名前の意味を教えたの、覚えてる?」
「……うん」
「忘れないで。
『譲る』のは、良いと認めた相手に託すことなの。
ただ渡したり、奪われることとは違うのよ。
譲は譲が良いと認めたものに、その時が来たら一番大切なものを譲ることになるの。
でも、認めていなかったら渡しては駄目。
何があっても大事なものを奪われてはいけない、守り通さなければいけないの。
わかる?」
「……うん」
「でも認めた相手に渡す時、譲は潔く託さなければいけないの。
上手くそれが出来る人は凄く少ないと思うのだけれど、
それが出来る立派な人にわたしは譲はなれると信じているから。
だからわたしの大事なお守りを貴方に譲るわね」
「大事なもの?」
「そうよ。
わたしの命よりも大事なものだけれど、譲にだから『譲る』のよ。
誰よりも譲なら大事にしてくれるって信じてるから、譲れるの。
大事にしてくれる?」
「やくそくする」

しっかりと頷いてくれた譲の笑顔に、思わず目頭が熱くなる。
譲と将臣の恋敵を選定するのはこの『龍の宝玉』。
二人の幸せを祈る私がそれを譲に託すのは……なんという因果だろう。
でも、これを譲に託すことが私の星の一族としての最後の役目だ。
考え込む私を譲は少し緊張して見つめていた。
真っ直ぐな眼差しにまだ陰りはない。
いつか恋の痛みに囚われても澄んだ眼差しのままでいてくれるだろうか。
どうか三人に幸いを。そしてあの世界の戦乱が鎮まりますよう。
祈りを込めて、譲に手渡す。
譲は両手で大事そうにそれを受けとると、中を確かめ綺麗だねと微笑んだ。


背景素材:空に咲く花

お気に召していただけたらぽちっとして頂けると幸いです