図書寮。
幸鷹さんがここにいると聞いて、頼忠さんに頼んで連れてきてもらった。
できればひとりできたかったんだけどな。
こんなときこの時代の女の子は不便だ、と思う。
普通図書館にひとりで行くことを責められたりなんかしない。
いつも黙ったままだけど、ひとりで行けますから大丈夫と
口に出してしまった瞬間の頼忠さんの溜息は正直怖かった。
心配してくれているのはわかる。
でも、龍神の神子としての用事じゃなくて、わたし個人の用事に付き合せていいのかな?
紫姫は気にすることはないというけれど。やっぱりちょっと気が引けた。
でもとりあえず会いに行きたいのだから仕方がない。
頼忠さんと一緒に四条の館を出た。
彰紋くんの取り計らいで一応大内裏まではわたしも入れることになっている。
朱雀門を抜けて、大内裏に入る。
幸鷹さんがいる図書寮は大内裏のずっと奥の方だ。
頼忠さんに悪いなぁと思うけれど、幸鷹さんに会えると思うと心がうきうきしてくる。
顔が緩んでるな、と思っては引き締めて。
歩き方が弾んでるな、と思っては落ち着こうと努力している私に
頼忠さんは良くわからないという顔をしていた。
……わかってもらっても困るから、ごめんね。と心の中で謝る。
図書寮につけば、いつもの彼に出会った。
すっかり顔見知りの彼に会釈すれば、にっこりと笑い返してくれた。
彼は書物が好きだから。図書寮の近くで会うときはいつも上機嫌だ。
本当に好きなんだな~、と思いつつ、中には入らないで外で待つ、
という頼忠さんを残して図書寮に入った。
何度か来たことはあるけれど、相変わらず少しほこりっぽい。
巻物や書物、塗りの箱などが並ぶ薄暗い中を歩く。
……何だろう、いつもよりちょっと静かだな。
幸鷹さんは確かにここにいるって言っていたのに。
そう思って歩き回れば、幸鷹さんがいた。
調べものがありまして。ちょっと時間に余裕がないのです。
そう言った幸鷹さんは少し疲れていた。
いつものように根をつめて仕事に励んでいるんだろう。
溜息をつき。呼びかけようとした瞬間。出そうとした声を飲み込んだ。
幸鷹さんの様子が少しおかしい。
いつもならピンと背筋を伸ばして机に向かって書を読むのに。
柱に寄りかかって座り込んでいる。
「ゆきたかさん?」
小声で呼べば、返ってきたのは規則正しい呼吸の音。
あれ?幸鷹さん……眠ってるの?
眠っている幸鷹さんなんて見るのは初めてだ。
いつもよりも少し幼い顔で眠る幸鷹さん。
睫が長いんだな、とか。やっぱり綺麗な顔だな、とか。
真面目な引き締まった顔じゃない、穏やかな顔をしてるな、とか。
薄暗い室内だからもうちょっとしっかりと見てみたくて顔を寄せれば、
吐息が頬をかすめてくすぐったかった。
それがいけなかったのか、眉間にすっと皺が寄り、幸鷹さんが瞼を開けた瞬間に腕をとられた。
一瞬のことに驚いていると、幸鷹さんはわたしの顔を見てきょとんとした貌をした。
「……神子、殿?」
「はい」
まだ状況が飲み込めていないのか、幸鷹さんはふるふると頭を振る。
少しずれた眼鏡をすっといつもの場所へ戻すと、
「貴方の夢を見ていました。
眠ったのはほんの少しの間、だと思うのですが。
目覚めたら貴方がいて。夢と現が一瞬わからなくなりまして」
「……えっ」
腕を捕らえたまま、そんなことを言うのは卑怯だ。
そう思うのに、起きぬけの幸鷹さんは少しゆっくりいつもより優しい調子で話すので、
掴まれたままの腕を振りほどくことも出来ず、ただ幸鷹さんを見ていた。
「現実でもこうやってお会いできて嬉しいですよ。
…………そういえば、どうやってこちらまで?」
「頼忠さんに連れてきてもらいました。
外で待っていてくれています」
「そうですか。で?神子殿。今日はどうしてこちらに?」
貴方に会いに来た、と言っていいんだろうか。
確かに幸鷹さんに会いに来たのだけれど。それを直接口に出すのが恥ずかしい。
口をぱくぱくさせながらうまく言葉を紡げないわたしに幸鷹さんは微笑した。
「袖口から、良い薫りがしますね。
これは侍従、と……柑子の薫り、でしょうか」
幸鷹さんは悪戯っぽく笑う。……幸鷹さんは全部きっとわかっているんだ。
水干の袖に幸鷹さんへ渡す物忌みのお誘いの文が入っている。
明日の物忌み……幸鷹さんは年末に向けて最高に忙しい時期に入っているのに、
来て欲しいとお願いするなんて。
もし断られてしまったら、明日は会えない。
今日だって四条の館に顔を見せられなかったくらい忙しいんだもん。
明日はもっと忙しいかもしれない。
だったら目の前で断られるのはショックだけど、直接渡せば少なくとも会える。
幸鷹さんに会いたかったから。来てしまった。
馬鹿みたい。
そう思うけれど。ちょっとでも会いたかったから。
勇気を振り絞って、袖口から文を取り出して、幸鷹さんに差し出した。
「あの、明日の物忌み。なんですけど」
「はい」
「……もし都合がよければ、付き添いをお願いしても、いいですか?」
「侍従は私の好きな薫り、柑子も私の好きな花、そして淡萌黄も私の好きな色。
このように心を込めていただいた文のお返事はむげにはできませんね。
私でよろしければ勤めさせていただきます」
「凄く忙しいのに、ありがとうございます」
幸鷹さんはにっこり笑うと文を丁寧に懐にしまった。
その仕草はとても優しくて。
自分の出した文が大事に扱われていることが嬉しかった。
まるで自分自身が大事に扱われているような錯覚を起こし、カッと顔が熱くなった。
恥ずかしくて、顔をそむければ、
「……もし、明日の貴方の物忌みに私が呼ばれたら、
迷わず馳せ参じられるよう仕事を片付けていたのです」
「えっ」
驚いて幸鷹さんの顔を見れば、薄暗い中でもほんのりと赤く染まっているのが見えた。
幸鷹さんも同じ気持ちだったら嬉しいな。
「明日はゆっくりとお話できますね」
「そうですね。嬉しいです」
「…………嬉しいと言ってくださいますか」
幸鷹さんは捕らえた手に少し力を入れ、わたしを引き寄せた。
「貴方が夢のとおり、目の前にいてくださって嬉しかった。
しかもこのような近くに」
「あっ、あの」
「……夢の続きを……よろしいですか?」
「…………」
嫌だ、とは思えないわたしの様子を見て、幸鷹さんは少し嬉しそうに笑い、
一瞬はにかんだ後、軽く掠めるようなキスをした。
確かに、唇が触れたけれど。
とても柔らかかったそれは一瞬何が起こったのかわからなかった。
「……今は誰もいなくとも、いつ誰が来るともわかりませんから」
幸鷹さんは少し寂しそうな顔をして立ち上がったので、わたしもたちあがった。
その時、多分さっき会った貴族の青年だと思うけれど、図書寮の中に人が入ってくる気配がした。
「では、明日お伺いします」
「お待ち、しています」
まだ調べものがある幸鷹さんを残し、わたしは図書寮を出た。
さっきただ一瞬触れただけなのに。
唇にまだ、余韻が残っているみたいで、軽く指で触れてみた。
いつもよりちょっと熱いかも。
……また、明日会えることが嬉しい。
スキップしたい気持ちを堪えて、ふと立ち止まった。
あんなことがあったのに、どんな顔をして会えばいいんだろう。
でも、会えるのは嬉しいから。まあ、いっか。
こんなふにゃふにゃの顔を頼忠さんには見せられないな。
わたしは勢い良く自分の頬を両手で叩いてみた。