「今日はわたしは非番のはずですが」

 不機嫌な幸鷹の声に、花梨の肩はビクっと跳ねた。
 しまった、と思い幸鷹は花梨をとりあえずベンチに座らせて距離をとる。
 ……仕事中の声はあまり聞かせたくない。なんとなく。
 何故この電話を取ってしまったのか、律儀な自分を一瞬呪った。
 電話の向こう側はそうとう混乱しているらしく、背後からざわざわと声がする。
 非番の自分にまで電話がかかってくる事態なんて頭を抱えるような状況に違いない。
 今日のデートの時間を確保するのにはらった努力が無駄になったな。
 ただ動揺してわめいているだけの同僚にこれから行くからと言い放ち、
 幸鷹は勢い良く携帯電話をたたんだ。
 その音に花梨が振り向く。
 その顔には諦めが浮かんでいた。

「申し訳ありません」
「仕方ないですよ」
「でも、折角……」
「もう!早く行かないといけないんでしょ?
 ……いってらっしゃい、幸鷹さん」
「……すみません」
「また、絶対出かけましょうね」
「ええ、必ず」

 見送ってくれた花梨の笑顔に幸鷹は申し訳なさでいっぱいになりながら、駅へ急いだ。
 研究室に到着し、混乱を極めたその状況をどうにか収め、
 鍵をかけた時には12時半を回っていた。
 捕まえたタクシーに乗り込む。
 幸鷹は少し考えて、運転手に花梨の自宅の住所を告げた。
 疲労感に包まれて、眼鏡を外し、瞼を手で押してみる。
 花梨はもう、眠っているだろうか。
 電気が消えていたら、そのまま帰ろう。
 運転手に少しそのまま待ってもらたいと告げ、幸鷹はタクシーを降りた。
 見上げれば、花梨の部屋には電気がついていた。
 通話ボタンを押す。
 コール3回で花梨は出てくれた。

「…………幸鷹さん?」

 夜が弱い花梨の声は少し眠そうだ。
 もしかして自分の電話を待っていてくれたのだろうか。

「花梨?」
「はい。お仕事うまく行きました?」
「ええ、おかげさまでなんとか。
 今日はすみませんでした」
「いま何処にいるんですか?」
「……」
「車の音がさっきしたんですけど、……もしかして」

 窓が開き、パジャマにカーディガンを羽織った花梨がベランダに出てきた。
 小さく手を振れば、花梨は一瞬驚いて笑顔になった。

「貴方の顔が見たくて」
「降りましょうか?」
「いいです。こんな時間にそんな格好で外に出すわけには。
 それに」
「それに?」
「車を待たせてあるんです。貴方がここに降りてきたら連れて帰りたくなってしまう」
「もう」
「本当ですよ。
 こんな夜に貴方を抱きしめて眠れたら幸せでしょうね」
「幸鷹さんってば」
「……今日は、ありがとう。
 また必ず、何処かへ出かけましょう」

 花梨は少し考えて、ためらいがちにだけれど、言ってくれた。

「何処にもいかなくてもいいですよ。
 幸鷹さんといっしょにいられればいいですから」
「……ありがとう。
 もう、冷えますから入ってください。わたしも帰ります」
「幸鷹さん」
「……なんですか?」
「会いにきてくれて、嬉しかったです」

 笑顔で手を振り部屋に入った花梨を見送った後、幸鷹はタクシーに乗り込む。
 住所を告げ、花梨の笑顔を反芻する。
 ……本当に降りてきたら連れて帰ってしまっただろうな。
 こんな寒い夜に貴方を抱きしめて眠れたらどんなにか幸せだろう。
 早く、その日が来ればいい。
 そう思いながら、幸鷹は瞼を閉じた。

背景画像:ミントBlue

デート中に 幸花ver.