譲に図書館で借りてもらった本を、弁慶は一心に読んでいる。
 有川家のリビングは日当たりが良く、景時のコーヒーの香りが満ちていて
 とても居心地が良かった。
 景時は最後の一滴まできっちりと出したコーヒーの香りを吸い込み、
 次はもう少し炒り方を深くしてもいいかもしれない、と頷いた。

「景時、僕にもそれは頂けるんですか」
「勿論。
 また新しい豆を試してみたんだ。いい香りでしょ?」
「そうですね。
 コーヒーには覚醒作用があるようですから確かにそれを飲むと頭が冴える気がします」
「そうだよね。
 弁慶は牛乳や砂糖は入れる?」
「君が香りを楽しむために淹れたのならそれ程濃くは入れていないのでしょう?
 そのままを頂きましょう」
「適度な糖分は頭の回転を良くするって譲くんは言ってたよ。
 あっ、彼の焼いたクッキーがあったね。少し貰おう」

 景時は香り高いコーヒーをカップに注ぎ、ソーサーにかたんと置くと、
 戸棚から拝借したクッキーを添え弁慶の前に置いた。
 そのクッキーには白と黒の格子模様が細かく入っていて、弁慶はつまみあげると感嘆の声をあげた。

「本当に彼はまめですね。
 勉強に、弓の練習に、僕らの世話をしながら、こんなものまで作って」
「そうだね。
 でも久々に帰ってこれてほっとしてるんじゃないのかな。
 オレたちにむこうで世話になったからって張り切ってくれてるね」
「こうして、僕が頼んだ本まで探してこうして借りてきてくれているのですから」
「オレは彼の歳にはもっとぼんやりしてたと思うんだけどなあ」
「僕はどうだったでしょうね。ふふふっ」

 景時は苦笑いしてふふふと笑う弁慶からわずかに視線を逸らす。
 やんちゃだったころの弁慶の話など恐ろしくて聞けない。
 今日も譲は部の活動の為に学校へ弓の練習に行った。
 将臣は海に潜りに、九郎とリズヴァーンは連れ立って何処かへ出かけていった。
 ヒノエと敦盛も何処かへ出かけている。
 特にヒノエはこちらへ来てから水を得た魚のように飛び回っている。
 彼のような性格ならこちらに来ても楽しくて仕方がないのだろう。

「ところで、弁慶それは何を読んでいるの?」
「これですか。
 抗生物質と言って、何というのでしょう。
 毒を持って毒を制するというのでしょうか。そういう考えをもった医療について
 書かれている本ですよ」
「……へ、へぇ……」
「例えばこれは青かびに含まれる一種の……」
「か、カビ?
 ああ、もういいや。それで充分だよ」
「こちらは本当に医学が発達していますね。興味深いものが多いですよ。
 漢方なども簡単に手に入りますし、質の良い薬も多い。
 景時も興味を示していたじゃありませんか。車とか」
「そう、車ね。飛行機もすっごいよね。
 一度運転してみたいんだけどね。免許が無いとダメみたいなんだ」
「運転するだけなら良いのではありませんか」
「い、嫌だなあ、弁慶。
 あれは馬とは違うからちゃんと乗りこせないと死ぬこともあるって
 譲くんは言ってたよ。
 確かに当たったら痛そうだしね〜」
「へまをしなければいいんですよ。何事もね」

 余裕でコーヒーをすすりながらにっこりと笑った弁慶に、
 景時は嫌だなあと繰り返すと冷や汗をかいた。

「まったく君らしくも無い。何を躊躇っているんです」
「何って、何をかい?」
「そうやってコーヒーや何やらに夢中になるふりをして、
 景時、君は何かを知って恐れている。違いますか?」
「まったく弁慶にはかなわないな。
 いつの間にかここに馴染んで帰りたくないと思ってしまうのが怖いんだ。
 ここは平和だし、便利だし。
 朔もいる……母上さえもしこちらにいてくれたらこんなにいいことはないよ」
「鎌倉殿の無茶な要求もありませんしね」
「まあ……問題はこっちにもあるんだけどね。
 望美ちゃんのこととか。気になることはある。
 けれどこんなに戦のことを忘れてのんびりできたことなんて今までなかったからさ。
 このままでいいのかな〜、とは思ってるよ」
「平和ぼけ、ですか?」
「そうだね。
 まあオレは戦になんてもともと向いて無いんだからさ。
 戦なんて無いにこしたことはないよ」
「……軍奉行の君が向いていないなんて、僕にはそうは思えませんけどね」
「向いてないんだよ。
 オレはそう思ってるんだ。
 ああ、九郎には内緒にしててよ〜。帰りたくないなんて言ったらきっと怒られる」
「美味しかったから、もう一杯おかわりをくれたら考えますよ」
「ほんとに?いや、美味しいって言って貰えて嬉しいよ。
 じゃ、御意〜ってね」
「ええ、そういう面倒は僕も避けたいですから。ご心配なく」

 にこやかにカップをひらひらさせれば、景時は嬉しそうにもう一杯を
 いれに台所へと戻っていった。

「確かにここは居心地がいいですね」

 空調の効いた暖かな部屋、座り心地も寝心地も良いソファ。
 学んでも学びきれないほどの知識を誇る図書館に、簡単に調べ物ができ
 世界へと繋がっているインターネット。
 魅力は確かに溢れている。
 水を得た魚のように飛び回ってばかりの甥っ子の楽しそうな顔がちらりと思い浮かぶ。

「けれどヒノエを帰さなければ、きっと兄さんには恨まれるでしょうね。
 それに」

 まだ全ては終わっていない。
 それから僕は逃げることを自分に許すわけにはいかない。
 ここで得た知識を少しでも生かすことができたら、
 少しは犯した罪を贖うことが出来るだろうか。
 ふと望美の笑顔が過ぎる。

「それでも君の笑顔を少しでも守ることが出来たらと思うのもまた、
 嘘ではないんですけどね」

 湯が沸く音と、コーヒーの濃い香りが漂ってくる中、
 弁慶はソファに深く座りなおし、瞼を閉じた。


8.居心地のいい部屋

遙かなる時空の中で3 武蔵坊弁慶&梶原景時