パンドラの匣






「ああ、俺もっとしっかりしないとな」

 起き抜けにそんな言葉が口から漏れた。
 どうしてそんな言葉が出たんだろう。
 後数分で鳴る目覚まし時計のスイッチを切って起き上がる。
 となりに眠る貴方が、寝返りを打った。
 ……起こしてしまったのだろうかと思ったけれど、貴方はむにゃむにゃと
 何かを呟きながらまだ夢の中。
 貴方を起こす時間までもう少しある。疲れているからしっかり眠って欲しい。
 そっとベッドを抜けると、貴方は俺が寝ていた場所へごろんとさらに寝返りを打った。

『もっとしっかりしないと』

 そんなこと口に出すまでもなくいつも思っている。
 貴方を支えないと、貴方を幸せにしないと。
 紙一枚と、指輪三つ分の重さなんてたかが知れているけれど、
 交わした約束と責任は果てしなく重い。
 でもそれは自分ひとりのものじゃない、分かち合うものだから。
 朝の光はなんでこんなにも幸福感に満ちているんだろう。
 窓を少し開けて空気を入れ替える。
 眩しさにまたもぞもぞした貴方に心の中でごめん、と呟き頬にキスをした。
 
 冷凍庫にストックしてあるパンを選ぶ。
 最近パンを焼くのが面白くなってきて数種類のパンがいつもある。
 貴方はこりだすと止まらない俺に苦笑いしながら、おいしいからいいよと言ってくれる。
 こねるのに力が要るから休みの日にパンを焼くのは結構いい気分転換になる。
 焼きたてのバケットはそれだけでおいしいからワインもチーズも進んで困る。
 ……今日はいつもの素朴な丸いパンにしようか。
 オーブンにスイッチを入れて解凍開始。その間に顔を洗い、洗濯機のスイッチを入れた。

『もっとしっかりしないと』

 今朝なんでそんなことを思って目が覚めたんだろう。
 また、何かの夢を見たんだろうか。
 その割には頭が軽い。
 夢の内容はおぼろげで、あまり印象に残っていなかったけれど
 悪い夢だったという感触はのこっていない。
 鏡に映る自分の顔に暗い影は見当たらない。
 悪い夢を見た後の酷い状態ではない……ということはいい夢だったんだろうか。
 そろそろ貴方を起こす時間だ。
 テーブルにジャム、バター、チーズとざっと盛ったフルーツを用意して
 寝室に声をかけた。

「望美、そろそろ」
「…………」

 これぐらいでは朝弱い貴方は勿論起きてはこない。
 俺はベッドに腰掛けて、

「望美」
「…………」
「今日の朝の卵は何がいい?」
「…………オムレツ」
「紅茶とコーヒーどっち?」
「……コーヒー」
「了解。
 すぐ準備できるから、そろそろおきて」

 コーヒーメーカーのスイッチを入れ、卵を割りオムレツを作る。
 卵とバターがフライパンでじゅうじゅういい、コーヒーの香りで満ちてきた頃
 貴方はふらふらしながら起きてきた。

「ゆずるくん、おはよー」
「おはよう、望美」

 ことり、とほかほかのオムレツを目の前に置けば、
 貴方の目がバチリと覚めた音がした。

「おいしそうっ」
「いただきます」

 ふたりでぱちりと手を合わせ、食べ始める。
 ぱくぱくと美味しそうに食べてくれる貴方を見ていると
 幸せだなといつも思う。

「ゆずるくん今日の朝、なんかぶつぶつ言ってたけどどうかした?」
「多分、夢をみたのかな」
「たぶん?」
「夢を見たんだろうなあ、と思いながら目が覚めたから多分そうだと」
「……また、いやな夢?」
「いや、多分いい夢」
「ふ〜ん」

 なんだか暖かい夢だった。
 暖かい、大切なものを抱いていたような……?
 貴方がかけてくれた魔法はまだ解けていないのだと思う。
 あれから嫌な夢はともかく、現実になる夢は見ていない。
 あの時初めて触れ合った時に知った肌に包まれる圧倒的な幸福感は今も覚えている。

「じゃあ何でそんなに気になるの?」
「久々に本当になる夢の感じがしたからかな」
「そんなのわかるの?」
「なんとなく」
「……ふーん」

 貴方はおいしそうにオレンジを口に入れた。
 最近貴方はオレンジやみかんが好きなようでよくリクエストされる。
 そのさわやかで溌剌とした香りは朝にふさわしい。
 ごちそうさまと手を合わせ、皿を流しに置くと貴方は物凄いスピードで身支度を始めた。
 貴方の方が出勤が早い。
 俺は朝ごはんの片付けに入った。
 貴方はいつもごめん!と謝るけれど朝強いのは俺だし、俺のほうが出勤が遅いのなら
 朝ごはんの仕度や何かは俺がやる方が効率がいい。
 皿を洗い終える頃には洗濯が終わるのでそれを干す。
 最近景時さんが洗濯好きだった気分がわかるような気がしてきた。
 洗い上がりの石鹸の匂い、汚れの落ちた洗濯物をパンと伸ばす瞬間。
 日に当たってそよぐ洗濯物。
 どれも気分がいい。
 洗濯物を干してベランダから戻ると、貴方は着替えと化粧を終え、バッグを持って玄関にいた。

「今日は帰りは?」
「普通」
「夜勤の日わかったら早めに教えて」
「うん。
 じゃ、行って来ます」

 ちゅっと音を立てて、キスをすると貴方はばたばたと扉を開けて行ってしまった。
 俺は朝の残りのコーヒーを片手に、新聞を読む。
 ふと貴方と昔にパンドラの匣について話したことを思い出した。
 パンドラの匣に残っていたものについては色んな解釈がある。
 でも今は、結局残っていたものは同じなんじゃないかと思うようになった。
 希望だとしても未来を予見する力だったとしても、本質は同じなんじゃないか。
 希望が残っているからあきらめることが出来ずそれが不幸の本質であるという説と、
 未来を知って絶望して生きることを諦めるのも対して変わらない。
 大切なのは匣に残ったものをどうとらえて生きるかだ。
 匣に残ったものを意識して生きるのか、見なかったことにして生きるのか。
 それすらも受け取り手の自由だろう。
 あの頃の俺は絶望する自分自身に酔っていて、貴方への届かない想いに苦しんでいた。
 やり場のない怒りは愛情の裏返し。苛立ちは不安そのものだった。
 星の一族の力は俺の強い願いと感情によって引き出され、あの頃は悪夢として俺を祟った。
 あの夢は貴方を好きで守りたくて、貴方の為に何かしたいのに無力だった自分への苛立ちと絶望、
 そして貴方を失いたくないという恐れが見せたものだった。
 なら何故今もそんな夢を見るのだろう。
 しかも幸福の手触りがある夢だった。
 やはり夢を見る自分の感情と状況に揺れてみる夢は良くも悪くも変わるのだ。
 自分には悪い夢しか見れないのではないか、と悩んでいたころが懐かしい。
 今朝見た夢はいい夢だった。
 そのうち仔細が明らかになっていくのだろうか。
 そんないい夢はいつまでも見ていたい。
 貴方のかけた魔法は未だ解けず、俺は幸せの中にいる。
 嫌なことや辛い事がなくなるわけでは無いけれど、感じていられる小さな幸せことが
 生き続けていく力になる。
 おやすみという前に今日も良い日だったといえるように時間を重ねて、
 いつか俺と一緒で貴方が幸せだったと思える日が来るまで、
 貴方と俺が一緒にいられますように。
 そんなことを考えていたら家を出る時間が迫ったので、俺は新聞を畳むと、
 冷めてしまったコーヒーをあわてて飲み干しカップをシンクの中に置いた。


背景画像:ミントBlue

お気に召していただけたらぽちっとして頂けると幸いです