桃始笑(ももはじめてさく)






 もういいだろう。
 日に日に暖かさを増し、視界に次第に色がさし、
 花の香りがふわりと届くようになった頃ふとそんな気持ちになった。
 髪を切ってくれない?そう君に声をかけると君は不思議そうな顔をした。
 どれくらい切るんですか?
 渡した鋏を手にして君は問う。
 肩より短いくらいにばっさりやってくれてかまわない。
 そういえば君は顔色を変え、真剣な眼差しで私を見つめた。
 聡い君には私の考えていることなどお見通しなのだろう。
 黙って頷けば用意してきます、と鋏を置いて君は寂しそうに笑った。

「本当にいいんですか?」

 君は慣れた手付きで簪を抜き、髪留め代わりの鍔をするりと抜くと、
 名残惜しむように髪を撫でた。

「いいんだよ。
 ゆきくん、君に切ってもらいたい。
 ……頼めるね」
「わかりました。
 でも、本当に勿体無いです。
 こんなに綺麗なのに」
「……髪が長い私でないと嫌?」
「そんな。
 ……帯刀さんは、……帯刀さんですから」

 添ってから数年になるというのに、君は恥らうように顔を背けた。
 もう子も成したというのに。
 まだそんな恥じらいを時折見せる君が愛おしいと思う。
 
「髪が長くないと、君の心が離れていくというのなら、
 再度伸ばしてみてもいいよ。
 でも一度ここで終わりにしたい。
 君が龍神の神子の役目を全うしたように、
 薩摩藩最後の家老としての小松清廉帯刀をここで一度終わらせたい。
 君の手で。
 ……私の我侭だと知っているけれど」
「わかりました」
「ありがとう」

 君はかつて龍神の神子であった時の様な眼差しで、一房一房に鋏を入れた。






 君が世界を救い一度故郷に戻った後、私の元へ帰ってきてくれてから幾年たっただろうか。
 一橋卿が将軍となり、傾き始めていた幕府は立ち直った。
 小栗殿、いや一橋慶喜殿もそれは自覚なさっておいでだったのか、
 自分が最後の将軍として最後の幕を下ろすと覚悟されていたようだった。
 薩摩藩は一橋派を名乗りながらも、結局倒幕の流れは留まることは無く、
 大政奉還は成り、西郷と勝殿の名の元に江戸城の明け渡しが行われ、
 慶喜殿は駿府の地に蟄居されることになった。
 龍馬は大臣として、中枢に留まられることを望んだらしいけれど、
 慶喜殿はそれを断られたと聞いている。
 私は既に地位と領地を返上し、政の世界を離れていた。
 薩摩藩家老としての職務を全うした功績として、
 いくばくかの禄を最後に貰い、それで商社を立ち上げた。
 私の妻は、かつて異国の地で学び、異国の言葉を流暢に話す。
 時々会う機会のあるサトウ君と君が英語で内緒話をするのを見る度、
 悔しくなり今は少しずつ学んでいる。
 商売をするのに、言葉が通じなければ真っ当なやり取りなど出来る筈もないから。
 君はさらに桜智からフランス語も学んでいるらしい。
 ……海を越えた向こうに何があるのだろう。
 いつか大きな船を持って、外遊をしよう。
 それが二人のささやかな目標だ。

 かつて家老だった私に、薩摩の民は折を見ては郷土の品を送ってくれる。
 やんわりと必要ないと言っても、なかなか聞き入れてもらえない。
 ずっと続くものでもないだろうし、折角の好意だからとゆきくんは丁寧に礼を送る。
 いい物が入りましたので、と持ち込まれたのは黒豚。
 ちょうど江戸に向かうし、寄ってみようかとゆきくんに問えば、頷いた。
 風をはらんだ帆が、気持ち良い音を立て船は進む。
 ざっくりと耳の下で切りそろえた髪が、春の風に舞う。
 ゆきくんはその髪が気に入ったのか、その切先によく触れる。
 ……短い髪がそんなに面白い?と問えば、さらさらで気持ち良いですからと君は言った。
 君を抱くときに、髪が君にまとわりつくその光景も、
 髪すら君を逃すまいとしているようで案外気に入っていたけれど、
 髪が短い頭は軽く、頭痛も減った気さえした。
 ぱさりぱさりと床に落ちていくたび私は開放されていく。
 本当に重かったのは髪ではない。
 髪留め代わりに使っていたのは剣の鍔。
 月代を止めた頃、『合理的でない』という理由で刀を差すこともやめた。
 自分よりも剣の腕の立つものが護衛でついていたのだし、自分の身を護るのなら薙刀で充分だ。
 しかし本当に重かったのは刀でもない。
 刀は武士の権力の象徴。
 人の命をいつでも断てるという権力の重みは、
 自分の命をもって咎を償うという覚悟を強いられることの裏返し。
 銃を携帯するくせに、刀を下げて歩く武士を野蛮人と揶揄する、
 外国よりの来訪者との交渉の席では警戒心を煽るだけで何の得もない。
 武士の命とされた刀が、野蛮人の証と聞いてから私は刀を差すことを止めた。
 江戸城の登城の際や、御所へあがる時、他の誰かとの交渉の時、
 結局預けることになるのなら最初から差していないほうが余程身軽で合理的だろう。
 相手を信用していると身をもって示すことにもなる。
 そして私は自らの命を持って罪を贖うことはしないと、
 死んで逃げることはないと脇差を手放すことで覚悟を決めた。
 家老の命をもって、何かを償うときには改めて刃を手に取ろう。
 しかし、自分の咎は生きて償うのだという戒めに私は刀を手放した。
 けれど私が武家の生まれであることは代わりない。
 その生まれに誇りを持たぬわけでもない。
 私は刀の鍔を髪に挿し、それを己の刀であると思い定めてきた。
 地位と領地を返上し、身辺の整理を終えたとき、髪は君に切ってもらった。
 ゆきくんは男の私に、綺麗な髪だから勿体無いと言ったけれど、
 私にとってそれは枷でしかない。
 覚悟を決めてゆきくんが髪を一房切り落としていくたびに、
 自由になったと思ったのに、結局その後商社を立ち上げて、
 また責任を負っているのは……何処かに縛られていたい性分なのだろう。
 けれど今度は自分の裁量で全てが決まっていく。
 自分ひとりの切腹で贖うことは出来ない。
 ゆきくんと、その胸にある新たな命は私が護っていくべきものだ。
 今、その責任の重さが心地よかった。
 船長がそろそろ着きますと声をかけてくる。
 舳先に立ち先をみつめるゆきくんに、降りる支度をするよう伝えた。

 船を持つ今は、船に乗る機会は多いけれどやっぱり馬が性にあっている。
 馬に意思が伝わると、自在に駆けられるのがいい。
 馬といってもそれぞれに気性は違うから、心通わせ思い通りに動くその瞬間が好きだ。
 海と言う心もとない場所よりも陸の方がやはり性にあっているのは、
 やはり自由を味わう素質が足りないのかもしれない。
 龍馬は船の旅をことのほか好んでいたから。
 借りた馬に跨り、速度を落としてゆきくんの乗った駕籠に寄り添い歩く。
 もし子供をつれていなければ、ゆきくんも馬に乗りたがっただろう。
 乗り方を教えればゆきくんは上手に馬を乗りこなした。
 ゆきくんが乗馬を始めたと知ったサトウ君から、
 英国式の乗馬服と手袋などが一式誂えられて贈られた。
 相変わらず抜け目がないとため息をついてみてもゆきくんの笑顔を見れば何も言えない。
 何よりも二人で遠乗りに出かけるのは楽しかった。
 また乗れるといいなと思いつつも街道を行く。
 時折駕籠の中からぐずって無く子供の声と、それをあやす君の声が聞こえ、
 春ののどかな日をこうしてのんびり進むのもまたいいと思った。

 先に知らせておいたので、問題なく城門を通される。
 薩摩の商人が御贔屓に挨拶をしたいと願っていると連絡を入れたせいか、
 通された間で待たされていたのが私たちであるのを見たチナミは驚いた。
 時折江戸城で見かけたときよりも今はさらに背も伸び、しっかりとした青年になっていた。
 それを眩しく感じるのは、私のただの僻みだろう。

「……小松殿」

 一橋派を名乗りながらも、結局倒幕を進めた薩摩の家老の私に
 チナミは複雑な思いを抱いていたのだろう。
 尊皇攘夷の志を抱きながらも、国の為、兄や仲間の遺志を継ぐ為と、
 慶喜殿のもとで働き、今もなお駿府に留まっている。
 そんな真っ直ぐな心根の青年には、私の老練といってもいい立ち回りは
 理解は出来ても、受け入れがたいものに違いない。

「久しぶりだね、チナミ」

 二人の間のそんな微妙な空気をあっさりと、子供の笑い声が破る。
 チナミは初めて思い至ったように私の隣に座るゆきくんに目を向けた。

「チナミくん、久しぶり」
「久しぶりだな、……ゆき」

 ゆきくんに思いを寄せていたチナミは一瞬複雑そうに笑ったけれど、
 ゆきくんの笑顔に何かを思い切ったのか笑顔を見せた。

「それはお前の子か」
「そう。男の子。
 抱っこしてみる?」
「オ、オレが!?
 いや、いい」

 そうやって慌てふためく様は数年前とちっとも変わっていない。

「怖いの?チナミ。
 子供とは存外丈夫なものだよ。
 もう首も据わっているから抱いてみればいい」
「い、いや」
「……龍馬さんも、桜智さんもアーネストも。
 会ってくれた人皆に抱っこして貰ったよ?」

 不思議そうにチナミを見上げるゆきくんに根負けしたのか、
 チナミは震える手でその子を抱き取った。

「ふにゃふにゃしてなんとも心もとないものだな。
 もう、いいだろう……!!」
「そう?」

 もういいとばかりにもてあましたその子を私が抱き取れば、
 チナミは不思議なものを見るような目で私を見た。

「小松殿がそんな子煩悩になるとは、少々意外でした」
「そうかな」
「あまり素直に想像出来る物でもあるまい。
 切れ者で知られた薩摩の小松が子煩悩であるなどと。
 久しぶりだな。小松殿」

 入ってくるなり変わらず良く通る声で、慶喜殿は言うと、隣のゆきくんに目をむけた。

「久しぶりだな。
 ……龍神の神子、というのも変か。
 ゆき殿」
「お久しぶりです。慶喜さん」
「慶喜殿、……でよろしいでしょうか」
「今となっては身分の差などないからそれでいいだろう。
 けれど互いをさん付けなどで呼ばうのも気味が悪いな」
「そうですね」
「小栗殿、の方がむしろ呼びやすいのかもしれぬが」

 苦笑いした慶喜殿をゆきくんは不思議そうに見つめる。

「最後にゆき殿に会ったのは、燭龍を討伐に向かった時だ。
 まさか小松殿の元に留まるとは思っていなかったが、
 龍神の神子の使命を全うしたこと、今礼を言いたい」
「慶喜さんこそ、おつとめご苦労様でした」
「……そなたにそう言われるのは、気分がいいな」
「そうですか?」

 不思議そうに見つめるゆきくんを慶喜殿は頬を緩めて見つめた。

「別れ際私に役目を果たせと言ったのはそなただろう。
 その言葉、忘れたことは無い。
 そなたが立派に役目を果たして見せたことで、私も腹が決まったところもある。
 私にご苦労と言えるのはそなたしかおらぬ。
 今、肩の荷が下りたような気がした」
「上様」
「チナミ、上様は止せと言っている」
「申し訳ありません」
「チナミは相変わらず堅いね」
「そうでしょうか」
「堅いよ」

 苦笑いして見せれば、チナミは面白くなさそうな顔している。
 背が伸び、立派な青年とも言える姿になっても、
 その律儀さ、勤勉さは変わっていない。

「リンドウが……」
「リンドウさんがどうしたんですか?」
「リンドウが江戸が瘴気に覆われたのは公儀を護るための結界のせいであると。
 それを断ち切れば徳川の世は終わるかもしれないと言っていた。
 だから神子にそれを祓わせて良いのかと私に問うた。
 けれど穢れにさらされたまま続く公儀になど何の意味がある。
 神子がそれを断ち切るのなら、私が最後の将軍として幕を下ろすことに
 意味があるのだろうと思っていた」
「……そう、ですか」
「ゆきくん、君が気に病む必要は無いよ。
 時代の流れはもうそこへ向かっていた。
 君が何も手を下さなくとも変わらなかったんだよ」
   「そうだ。
 薩摩が私を後押ししたのも、私なら動乱を収め、
 綺麗な形で次の時代に明け渡すことが出来ると踏んでのことだろう。
 政に表も裏も無い。
 私を将軍職に押し上げることも、幕府を倒すことも、
 それが薩摩やこの国の総意であったのなら従うほかはあるまい。
 ただ……」

 慶喜殿はニヤリと笑うと私を見た。

「そなたは、私を裏切るまいとどこかで思っていたのかもしれぬのだがな」
「……それについては申し訳なかったとは思っておりますよ。
 ただ私の貴方に対する信頼と評価は変わらなくとも、
 藩意は別のところにありました。
 最後まで龍馬は貴方の出番を用意しようと奔走していた。
 龍馬の思惑では貴方を頂点に一度政の機構の再生を狙っていた」
「だが、桂はそれを望まなかったのだろう。
 時折好物を届けてくれるのはありがたいが、それは罪滅ぼしのつもりか」
「まあそれは否定はしませんよ。
 貴方を担ぐだけ担いで見放すような形になったのだから
 心苦しさは多少ありました。
 ただ貴方にならば、外国との交渉に負けず国を保ったまま、
 幕府を完全な形で終わらせることが出来るとは信じておりましたよ」
「……その評価があれば、充分だ。
 小栗忠慶であった時、隠していたがそなたには知れていたのだろう」
「……そうですね」
「あの時見逃してくれたこと、礼を言う。
 小栗忠慶であったからこそ成せたものがまた多いのだ。
 それで相子で良いではないか。
 ……ゆき殿」
「はい」
「……子を見せて貰えるか」

 ゆきくんは私から子供を抱き取り立ち上がると、慶喜殿に子を抱かせた。

「いい子だ」
「そうですね」
「……自分で我が子をその様に褒めるなど」
「いけませんか?
 でも、わたしはこの子のことを信じていますから」
「……そのように母御に信じられた子は、真っ直ぐに育つのだろうな。
 そなたのように」
「だと思います」
「そうか」

 慶喜殿は微笑み、ゆきくんに子供を返すと立ち上がった。

「小松殿」
「なんでしょう」
「ゆき殿と息災でな。またこうして会う機会があればいいが」
「今度は舶来ものの土産でもお持ちしますよ」
「楽しみにしている」
「……慶喜さん」

 ゆきくんの呼びかけに、慶喜殿は止まった。

「慶喜さんは、もうここから動かないんですか?」
「どういうことだ?」
「慶喜さんは、もう表舞台に立たないんですか?」
「……ゆき殿は本当にまっすぐだな。
 そなたの問いならば答えぬわけにもゆかぬな。難儀なことよ。
 ……求められれば動くともあるだろう。
 新たな政府が揺らいだり、間違った方向に進もうとするのなら
 それは止めねばならない。
 ただ方向とは中にいる内は見えにくいのだ。
 私は外れた場所でそれを見守る。その為にここに居るのだ。
 私が動くことの無いままに、時代が流れていけば良い。
 それは寂しいことかもしれないが、それがどれほど心休まるものであるのかも
 小松殿なら理解できよう」
「……そうですね」

 ゆきくんは子供をのほほに頬を寄せ、微笑んだ。
 子供の笑い声が部屋に響く。

「わたしにもわかりますよ、慶喜さん」
「そうか?」
「龍神の神子が必要とされない世界が一番いいんですから」
「……そなたが言うと重みが違うな」

 ひっそりと笑うと慶喜殿はこちらを真っ直ぐに見つめた。

「小松殿が向かうは江戸か」
「はい」
「……私がここに留まるはいいが、
 チナミのような若いものがここに燻るのは道理ではない。
 チナミを連れていってはくれまいか」
「上様!?」
「お前の忠義感謝している。
 だかお前にはやれることはまだあるだろう。
 藤田彦五郎、ここに戻るは二度と許さぬ」
「上様!」
「では、……よろしくな」

 慶喜殿はひっそりと笑うと広間を出て行った。
 チナミはその場に立ち尽くしたままだ。

「チナミ」
「……小松殿」
「肩を落とすことは無い。
 チナミの働きを信じているからこその言葉だよ。
 胸を張りなさい」
「……はい」
「……西郷や龍馬が若い人材を探している。
 引き合わせるから存分に働くことだ。
 その働きがこの駿府に届くぐらいにね」
「慶喜さんは戻ってくるなっていってるけど、
 チナミくんとまた会うのを楽しみにしていると思うよ?」
「そうだろうか」
「きっとそうだと思う」
「見事な働きをして、それを報告できるようになるまでは
 帰ってくるなと言っているんだと思えばいい。
 慶喜殿は力を尽くしたいと人一倍思っているよ。
 それが出来ない自分の分までチナミに働いてもらいたいのではないの?」
「……そうか!」

 チナミはがばりと立ち上がり、暇乞いと身支度をしてくる!と
 部屋を駆け出していった。

「慶喜殿も粋な計らいを」
「そうなんですか?」
「最後に藤田彦五郎と呼んだでしょ。
 あれはチナミの本当の名だ。
 ……幕府が収める世のうちは、その名を封じられていたけれど、
 新しい世になったのだからその名で父上と兄の志を継いで働いてこいと、
 はっぱをかけたのだろうね」
「そういうことだったんですか?」
「そうだと思うよ。
 まだ若いのだし、西郷あたりにこき使われるのが似合いだね」

 くっくっと笑った私をゆきくんは不思議そうに見つめる。
 その髪を撫で、胸元の子供の顔を覗き込めば、
 小さな手で私の髪を握り、楽しそうに笑い声を上げた。








背景素材:空に咲く花

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