遠く離れた岸辺の向こうで
ゆらめく赤いひかりのまえで譲は、弓に手を伸ばした。
ゆらりゆらり、火が形を変えるたび、自分の影がわずかに揺らぐ。
慣れ親しんだ電気の光はない。あのすべて隅々と照らす明るい光。
文明の光。
ほの明るいその光は部屋のすみずみまでは明るくはならない。
四隅はぼうと闇に沈み、譲は自分が世界から切り離されたような気持ちになった。
慣れた動作で手入れをしながら、感触を確かめるように撫でてみる。
馴染んだ形に対する愛着と、違和感。
指が震えてうまく、形を捉えられない。
今まで馴染んできたそれと同じものなのか。
昨日まで『部活の道具』だった弓は、今日『武具』に変わった。
それ自体は何も変わるはずはない。ただの物にすぎない。
けれど譲は今日初めてそれで、人を殺した。
「俺は馬鹿だな。
……本当の馬鹿だ」
はははと声に出して笑ってみる。
上手く笑えていない気がして余計薄ら寒くなった。
まだ上手く笑えない自分にほっとする。
人を殺した日に快活に笑える自分など吐き気がした。
そうでない自分に安堵する。
そこまでまだ変わっていない自分に。
でもいつかこの状況に慣れていく自分もいるのだとなんとなくわかっていた。
それが遠い日でないことも。
慣れてしまわなければ自分が壊れてしまうこともわかっていた。
「これで本当に人を射る日が来るなんて……俺は思ってもみませんでしたよ、先輩」
射ったその瞬間、自分でもあきれるほど冷静に『的』を絞っていた。
その『的』は望美に敵意を向けていたから。
純粋な殺意だけならそれほど冷静になれなかったかもしれない。
でもその殺意には戦場で見つけた『女』への好色な目線が混じっていた。
あっけなく矢は手元を離れ、その『的』の眉間に刺さった。
まるで吸い込まれるように。
望美は悲鳴を上げて、こちらを振り返った。
恐ろしいものを見るような目でこちらを振り返った。
あの表情を譲は一生忘れられないだろう。
「確かにこれで、先輩に近づく奴らを葬れたら、なんて想像をしたこともあったけど。
……まさか、本当に」
殺してしまうなんて。
望美のためなら何でもできると思っていた。
実際何だって出来た。
でもまさか人を殺してしまえるなんて。
自分の執着の深さに今更ながらぞっとした。
あの望美の瞳は『今の自分』に対して向けられている気がしてぞっとする。
こんな自分が恐ろしい。
……まさか本当に人殺しまでやってしまえるなんて。
そんな想いを向けてしまって本当にいいのだろうか。
全てをかけて想うなんて言葉にすれば美しいけれど、
そんな重たい愛情を向けられて相手はいったいどう思うのだろう?
「……気持ち悪いな」
口に出してみた。
口に出してぞっとした。
もしこの言葉が望美の口から吐き出されたら。
……それが怖くて、ひたすら幼馴染を演じてきた。
幾年も。
そうやって蓋をすればするほど想いはどす黒く育って。
心の中に留めておくのももはや限界に近い。
無邪気に笑う望美に甘く胸を締め付けられたのはいつまでだったろう?
今となっては愛しいのか、憎いのかさえわからない。
俺の心をここまで締め上げているのに貴方は何も気づかない。
わかろうともしない。
……そんな自分勝手の理屈に嫌気がさした。
「情けないな、俺は」
ただ先輩を護りたいと口に出して実行できたまっすぐな自分も
かつてどこかにいたはずなのに。
何故それだけを思って行動が出来ないんだろう。
「……そんなこと、ないよ」
心臓が跳ね上がった。
いつだって一番聞きたい声。今一番聞きたくない声。
譲の心を支配する声。それに抗うことなんてできない。
入っていいかなと声がしたので譲は戸をあけて外へ出た。
夜遅くに自分の部屋に望美を入れることなんて無謀だ。
平気で部屋を訪ねてくる望美の無頓着さに信頼を感じて嬉しくなった次の瞬間、
『男』として認識されていないことに対して絶望する。
いつもそうだ。望美は天国と地獄をいつだって一緒に運んでくる。
それが自分勝手な言い草であることも譲にはわかっていた。
「どうしたんですか、こんな時間に」
男の部屋に忍んで来るなんてという言葉をぐっと飲み込む。
「……譲くんと話がしたかったから」
望美は何で部屋に入れてくれないの?と首を傾げる。
「朔さんが知ったら何ていわれるか」
「……だから内緒。譲くんだまっててね。お願い」
そんなことはお願いされなくても誰にも言わない。
とは譲は言えない、だから尋ねた。
「どうして俺なんですか?」
「譲くんじゃないとね、きっとわかってもらえないから。
……ね、見て?すごい星だね」
譲は言われて初めて空を見上げる。確かに、凄い星空だった。
「凄いですね」
「ね」
「星がありすぎて、星座がよくわからないですね。」
「電気とかないからかな」
「空気も綺麗ですし、ビルもないですからね」
「そうだよね。凄い綺麗だけどなんだか少し寂しい」
「綺麗過ぎるからですか?」
望美は譲の瞳を覗き込んで、うつむいた。
「遠くにきちゃったなぁと思って」
譲は思い出す。
望美も今日初めて人を斬ったことを。
その敵は死んだか解らない。でも望美は初めて人を斬ったのだ。
白龍からもらったというあの白い美しい剣で。
望美は何度も手を洗っていた。手がしびれても何度も、何度も。
そしてあやまり続けていた。ごめんなさい、ごめんなさい、と。
望美の手には血は残ってはいない。
でも望美はその手をじっと見つめていた。
どこかうつろな瞳で。
手を洗い続ける望美の肩を朔が抱いていた。
傍らには白龍が立っていた。
譲は居場所を見つけられず少し距離を置いて望美を見ていた。
見つめることしか出来なかった。
譲自身も立ち尽くすことしか出来なかった。
自分も一杯いっぱいだったのだ。
でも今思う。
望美の気持ちを『本当の意味で』理解できたのは自分しかいなかったと。
でも理解できたのだろうか。
弓を使う譲には人を断つ感触など残らないのに?
「そうですね。でも」
俺が傍にいますという言葉を譲は飲み込む。
でも伝わればいいと幼馴染のふりをして望美の手を握った。
望美の冷たい手が少しでも暖かくなればいいと願って。
自分の手で暖められるのかわからなかったけれど。
「譲くんの手あったかいよ。……ありがとう」
望美はほろほろと涙を流した。
そしてつぶやいた。
ごめんなさい、ごめんなさい、と。
ぽたりぽたりと雫が落ちるたび、譲の中で何かが麻痺していく。
涙をぬぐうことも、抱きしめることもできない自分を自嘲する。
ここにはいない兄ならば、肩をしっかり抱くぐらいは出来るだろうか。
何気ない仕草で。
望美の泣く場所を作ってやれるのだろうか。
情けないけれど、今の自分では望美を支えられる自信がなかった。
ずっと支えたいと願ってきた、支えられると思っていた。
でも今は、譲は自分で手一杯で。
こんなはずじゃなかった、と思うことしかできない。
兄がいない世界を望んだこともある。
あったけれど、本当にいなくなってしまうなんて。
まさかこの状況は自分の後ろ暗い願いが引き起こしたのだろうか。
そんなことはない、そんな力自分にはない。
白龍に、選ばれたのは望美。
しかしあの時空を流れる濁流の中、
あの時自分の望みが兄を押し流したのではないのだろうか。
あの激流の中、手を伸ばした二人を引き剥がしたのは自分の願いではないだろうか。
今の望美に必要なのは将臣だったのかもしれない。
兄はどうなったのだろう。同じこの空の下どこかにいるのだろうか。
熱いものがこみ上げてきて譲はあわてて瞼を押した。
厭な渦巻き模様が視界にいっぱいになる。
まるであの時の濁流のような、色……。
「ここにいるのが俺で、すみません。
兄さんほど頼りにならなくて……」
望美の肩が震える。
頼りない肩。
それはすぐに触れられるほど近く、そして華奢で。
抱き寄せてしまえば腕の中にきっとすっぽりと納まってしまうのだろう。
いくらでも勘違いが許されてしまいそうなこの状況に、
流されるまいと譲は歯を食いしばる。
そこまでは自分の役目じゃない。
そんな役目は望まれていない。
いい幼馴染として、同郷の人間として、望美を支える。
それ以上今望んではいけないのだと譲は思うのに。
見上げてくる望美の瞳は誘うように濡れているようにしか思えなくて。
それから目をそむけるふりをして、
譲は望美を抱きしめた。
望美が一瞬びくっと強張ったので思わず譲は謝ってしまう。
「すみません、先輩」
でも望美はそのまま体を預けて泣き出したので、
せめて今だけ自分に赦された役目だと思いたくて。
いつもの口癖を言ってみる。
「本当に……貴方は仕方のない人だな」
そうやって苦笑して見せて。
いつもの距離を保っているふりをする。
こんなに近くにいるのに。
心は遙か遠くにあるのだとかえって知らされたような気がした。
でも今は傍にいたい。それが赦されるならいつまでも。
それしか出来ることがないなら。
せめてあきらめきれる日がくるまで。