朝を呼ぶ声
タン、と小気味いい音がして矢が的に刺さる。
澄み切った空気の中でする朝の練習は譲には不可欠のものになっていた。
動くものが『的』でない弓。
礼に始まり、礼に終わるとされる所作を一つ一つ確かめながら
集中を高めていく。
日常にもどるための儀式。
戦場で放つ弓ではなく、懐かしい部活の弓の感触を思い出すように、
ひとつひとつ手順を踏んでいく。
精度を上げるためじゃない。
人を殺める練習ではない。
ただ一点を狙い、自分を試すための弓。
そんな弓を譲は忘れたくはなかった。
師匠には『平和な弓だ』と笑われたけれど。
朝早く望美が起きてくることはめったにない。
譲が朝の修練をすませ、朝のご膳の仕度が終わって呼びにいくまで起きてこないのが常だ。
誰が起こしても朝が弱い望美は起きない。
譲の格子戸越しの声に反応するのは、朝御飯の匂いを感じているからに
違いないと思っていた。
譲が好物の名前をあげるとぱっと望美は飛び起きるから。
自分の声が好きだから起きられるのだと本当は思いたい。
……朝起こすのが自分であるのが当然な日が来たらいいのにと考え、
幸せな気分と浅はかな考えの間で馬鹿だなあと自嘲する。
血なまぐさい戦場と、穏やかな日常の間で、それは繰り返され、
譲はそんな習慣を密かに気に入っていた。
だから、朝望美に声をかけられる日が来るなんて思ってもみなかった。
「こんな朝早くから練習してるの?」
おはようといきなり声をかけられ、譲はびっくりして矢を取り落とす。
「精進が足りないな!って九郎さんならきっと怒るね」
「……いきなり気配を殺して声をかけないでください。
先輩が起きてくるなんて、思ってもみなかったから余計びっくりしたんですよ」
むっ、と望美は譲を睨む。
譲は落とした矢を拾い、もう一度やり直し、そして放った。
タンとそれは的の外に突き刺さる。
譲はため息をつく。
「……もう、今朝は駄目ですね。
これで終わりにします」
「もう終わりにしちゃうの?邪魔しちゃった?」
「……いえ、そろそろ朝の支度をする頃合だったから、いいんです。
それよりこんな朝早くからどうしたんですか?」
「ん〜なんとなく目が覚めちゃって。
譲くんこそ、朝早いね」
よく眠れないもので、とは譲は言わない。
けれど眠れないからと言って生活のリズムが乱れると、
もっと調子が悪くなることが譲にはわかりきっていた。
少しでも体を動かして良く眠りたい。
たとえ夢でうなされて起きても、眠れるだけ少しましだからだ。
「朝集中できると一日良く動けるんです。
学校でも朝練やってましたから、なんだか落ち着くんですよ」
「ふ〜ん」
「先輩だって剣の稽古頑張ってるでしょう?俺も頑張らないといけませんから」
「でも、朝練かぁ、懐かしいね」
望美はく〜っと伸びをして譲を見た。
譲はそうですね、と笑う。
譲の朝練は部活の決まりごとではなかった。
望美と学校に行くのが怖くて、朝早く出て練習をしていた。ただそれだけだ。
もっともらしく部活の顧問に申し出て、いかにも品行方正で熱心な一年生の顔で。
そうやって過ごせば、いかに円滑に物事が進むのかわかっていた。
素直な子供ではなかった、と思い苦笑いする。
将臣と望美が共通の話題で盛り上がり、譲に同意を求める。
話題についていけない自分。
ついていけない自分に気遣う二人。そんな構図が嫌で。
そんな二人から距離を置くように逃げたのは自分。
逃げたければ違う高校に行ったって良かったのに。
でも逃げるなら全寮制の高校にでもいかないと無理だとかなんとか、
中学三年の頃思い悩んだ自分を思い出す。
結局諦め切れなくて二人のまわりをうろうろして……
「譲くん?」
望美に覗き込まれるまで譲は物思いに飲み込まれていたことに気づけない。
ハッと気づいた様子に、望美は笑う。
「譲くんの集中力は凄いよね。
本読んでたり、弓を番えていたり……声をかけても聞こえないんだもん」
「それは」
集中ではなくて、思考の迷宮をさ迷っているんですよ。
とは言わない。言いたくもない。
面白くない現状を逃げてそんなところをさ迷っているだなんて。
「先輩も集中力凄いですよ。
寝ていても起きないし、集中して食べているときは何も他に見えていないですから」
「ええっ、酷いよ!!……本当だけど。
寝るのも、食べるのも好きなんだもん。いいでしょう?
譲くんの今日の朝御飯も楽しみだな。
みんな楽しみにしてるんだよ、譲くんの朝御飯」
「そうですか。
じゃ、今日も頑張らないといけませんね。
オムレツとスクランブルエッグどっちがいいですか?」
「スクランブルエッグ!!」
「……わかりました。じゃ、もう少し待っていてくださいね」
好きなものに対する望美の集中力は凄いなと笑顔を見ながら譲は思う。
では、好きな相手が出来たら?
望美はまっすぐにその相手に飛び込んでいくのだろうか。
その『とびきり』の集中力で。
こうやって傍にい続ける以上その誰かに飛んでいく望美を見ることになるのだろう。
昔はそれが自分の兄だと思っていた。
しかし今は八葉という魅力あふれる男たちの誰かであるかもしれないと思っている。
自分と違い、望美を護るだけの力量と、地位があり。人柄もいい。
男の自分から見ても見目麗しく整ったまさに『選ばれた』七人。
その輪の中に自分がいることが信じられないが、
望美を護りたいと思うこの気持ちだけは負けていない。
でも気持ちだけでは、護れないことも嫌というほどわかっていた。
自分には弓の技術を磨くこと、膳の仕度を整えること、庭の手入れ、
朔の手伝い……そして望美と現代の話をすることくらいしか出来ない。
八葉ではあるけれど、立場的には龍神の神子である望美の小姓。
実際の自分の身分はそれくらいなのだと自覚していた。
星の一族だと言われはしたが何が出来るわけでもない。
仮に星の一族であったとしても龍神の神子である望美の世話を焼くのが仕事。
実質なんら変わりはないのだろう。
師匠である那須与一のところへ弓の稽古へ行くときは、
それは生き死にのかかる戦場での弓の稽古。
それは朝の修練と似ているようで似ていない。
声をかけられて驚くような集中の仕方では戦場では生き残れない。
わかっていても朝の修練が譲には必要だった。
誰かに馬鹿にされたとしても。
人を殺す前提ではない弓。そんな甘えが赦される時間が欲しかった。
でも迷って放った弓がもし『的』に当たらなかったら、
そこが戦場ならその『的』は望美を襲うだろう。
そして望美の痛みがまた増える。
そう師匠は譲に教えた。弓を戦場で握る覚悟を。
迷うことは止めた、躊躇いは捨て去った。
でも弓の全てが、戦の色に染まってしまうのが嫌だった。
弓をすすめてくれたのは祖母。
その懐かしい笑顔ですら血と煙の匂いにまじって……
「譲くん?」
「…………、先輩」
「また何か考え事してた?
怖い顔、してたよ。何かいやなことがあったの?」
「いいえ。
でも先輩がこんなに早く起きてくるなんて今日は何か起こるかもしれませんね」
「ええー?お手伝いしようかなって思ったのに」
「それこそ雪が降りますよ」
ぷうっとほほをふくらませた望美にまだ恋の色はない。
譲は少し安堵して提案する。
「……後で蜂蜜プリンを作りますから、それで機嫌を直してください。
じゃあお膳を運ぶのと味見をお願いしようかな。」
「それって手伝いって言うのかな?」
「先輩にしてもらえるのはそれで十分ですよ」
「それって失礼なことを言われている気がするよ?
でも、今日はなんだか早く目が覚めちゃったけど。
譲くんに起こしてもらうの幸せなんだよね〜。」
にっこり笑う望美に譲は息がつまりそうになる。
「だんだん朝御飯のにおいがしてきて〜、今日の朝御飯なにかな、
って思いながらお布団でごろごろするのが好きなの。
だんだん譲くんの足音が聞こえてきてね。
うとうとしながらメニューを聞くと、さあ起きよう!!って元気になれるの」
「俺の足音は、朝御飯の合図なんですか?」
「うん、最近わかるよ。譲くんの足音って独特なんだよね。
なんだか安心できるの」
「……ってことは嘘寝ってことですね。
起きてるなら早く起きてきて下さい。みんな待ってるんですから」
望美にいつもの調子で注意はしてみるけれど、満更ではない。
そんなささやかな特権は誰にも譲りたくない。
この習慣がいつまでも続いたらいいのに、
そう願ってしまうのは贅沢すぎるのだろうか。
いつか二人だけの朝を迎えられたら……。
俺は欲深ですね、と譲は苦笑いを浮かべた。