19
目を開ければ、部屋は不思議に明るかった。
忍人は体を起こすと、寒さに身を震わせた。
「雪か」
掛けてあった上着に袖を通し、忍人は寝床から立ち上がった。
窓から見た外は白く、雪が止んでいるからか、
兵たちの訓練が始まっているようだった。
コンコンと戸を叩く音がして、どうぞと答えれば
風早が湯気の立つ粥を手に入ってきた。
「起きていたのですか、そろそろ起こそうと思っていましたよ」
「どれくらい眠っていた?」
「約二日ほど」
「それほどか」
「倒れたわけではなく、ただ起きないだけですから
一時期よりは症状が悪いわけでもないでしょう」
「粥、か」
「……急に食べ物を入れると胃がびっくりしますから。
とりあえずこれを食べて体を温めましょう」
「…………すまない」
「忍人が素直に謝るなんて、どおりで雪が降るはずですね」
「柊」
戸のほうを見れば柊がにこやかに笑っていて、
その笑顔に忍人はため息をついた。
「人の顔を見てため息をつくなんて失礼にも程があります」
「起き抜けに見たい顔でもないだろう」
「おやおや」
「……柊も暫くつまらなかったからと、からかうのは止してください。
忍人も粥がさめてしまいますよ」
むきになったように粥を口にして、忍人は思ったよりも熱い粥でやけどをした。
「……まったく子供ではないんですから。
それほど、湯気が出ていたのなら熱いとわかっていたでしょうに」
「うるさい」
「柊。
君がいると落ち着いて忍人が食べられません。
一緒にあちらへ行っていましょうか」
何か言いたそうな柊をにっこりと笑った風早は強引に連れて行き、
部屋の中は急にしんと静まり返った。
その静けさに忍人は耐え切れず、再度かき込もうとして再びむせた。
「熱」
昼の長さが日一日と短くなっていく。
夜に見上げる空は空気が澄んでより多くの星が見えるようになった。
千尋のために生きてみたいと願い、千尋にそう誓ったあの夜もたくさんの星が煌いていた。
あとどれくらい自分の命の残滓はあるのだろうか。
残量は関係ない。ただ千尋の為に生きたいと願う気持ちに変わりはない。
千尋との約束を果たしたいとは思うけれど、自分の役目は正直終わったのだと
口には出さなかったけれど忍人は思っていた。
あとは千尋の女王姿をこの目に焼き付けることが出来れば、思い残すことは何もない。
「……食べることは、生きることですよ」
豆茶を入れて戻ってきた風早は粥の鍋を覗き込みため息をついた。
「少し冷まそうと思っていただけだ」
「忍人は猫舌でしたっけ?
まあ食べてくれるならいいんです。千尋も忍人の回復を待っていますよ」
「千尋が……」
「そうです。
生きることを望んでくれなければ、こちらも手の尽くしようがないのですから」
「別に死にたいと思っているわけじゃない」
「でも生きたいという欲望も感じられない」
真っ直ぐな風早の視線を受け止められず、忍人は目をふせれば、
再び柊の声がした。
「死にたくないと叫びながら、死んでいった者も大勢いるのに、
贅沢なことですね、忍人。
それとも貴方ほどの武人であるからこその達観ですか?」
「……柊」
「言わせておけばいい」
「おや、無視ですか。
つれないことだ」
「お前は俺が言い返せば言い返すほど面白がる。
ならば答えなければいい」
「……流しきれてもいないでしょう?
言葉の底に怒りが見えますよ。忍人」
「目覚めればこれか。こんなに不快な思いをするなら目覚めなければ良かった」
「忍人!
売り言葉に買い言葉であったとしても怒りますよ。
今の言葉を千尋が聞いたらどれだけ悲しむか。
柊も柊です。病み上がりの忍人にからむのはもうよしてもらいましょう」
「我が君が、忍人のことを気にかけすぎて気もそぞろでつれなくて。
悔しくて口惜しくて、ついからかい過ぎてしまいました。不興を買ったのなら謝りますよ」
「いや、風早、いいんだ。
たまに考えることはある。
このまま目が覚めないまま終わることはあるのかと。
できるなら、……最後まで剣を離さずに最後の一瞬まで千尋の為に命を使いたい。
自分の死に様など、誰も思い通りには出来ないだろう?
でも望むなら、最後まで燃え尽きるように活ききりたい」
壁に立てかけられた双剣をじっと見つめ、そう言った忍人を、
柊はくつくつと笑った。
「柊、何がおかしいんですか」
「いえ。見上げた兵(もののふ)の志とも思いましたが、
忍人が死ぬことが出来ると思っていることがおかしかったのですよ」
「……どういうことだ」
「そうですね」
柊は優雅に手を広げ、忍人を真正面から見据えた。
いつしか片目を失った兄弟子が何を見ているのか忍人にはわからない。
「では忍人、死とはいつ訪れるのでしょうね」
「心の臓が動きを止めた時ではないのか」
「もしくは魂が体を離れた時ですかね」
「……死とは、その存在の記憶が失われた時に本当の死を迎えます。
誰かの思い出、記された書物が失われない限り、
その存在は死を迎えることなど許されない」
「誰かの中で生き続けるということか」
「そうです。
たとえ君が呼吸を止めても、我が君は君を忘れないでしょう。
我が君がこの世を去ったとしても、……そうですね。
私がこうしてさらさらと木簡に記せばそれが失われるまでは君は死ねない」
既定伝承(アカシャ)に名が刻まれてしまった君に死は永久に訪れない。
さすがにそれは口に出せませんね。柊は薄く笑う。
「呼吸を止めても、死ねはしない。
都合の良い美しい思い出の中で生かされるくらいなら、
生きていた方がきっとましだと君は言うと思うのですが。如何ですか」
「確かに、やさしい人だったなどと美辞麗句で飾られるのは
忍人は耐えられないかもしれませんね」
「……お前たちがあることないこと千尋に吹き込むのも止められるしな」
「おや、心外ですね。私は我が君に嘘など申し上げてはいませんよ。
ただの解釈の違いです」
「君の場合、それは嘘と言っても差し支えはないと思いますよ」
「風早、酷いですね」
「自業自得だろう」
「……私は嘘はつきませんよ」
「嘘にならない程度に情報の正確さをぼやかす手腕は君は一流ですからね」
「心ある人ならば、そして言葉を扱うのにたけた人ならば、
私の言葉より真実を引き当てることは可能でしょう」
「今の言葉は……はぐらかしていると自分で認めたようなものだろう」
おやそうでしょうか。
柊はにこりと笑い、書庫の整理があるのでこれで、と部屋を出て行った。
「……なんだったんだ。いったい」
「柊なりの励ましだったのかもしれませんね。
忍人、怒ったせいか顔色が良くなっていますから」
「……」
「素直でないのも困り者ですが、素直な柊も想像がつきませんね。
そうだ忍人、もし動けるのなら千尋に顔を見せてやってください。
君に会えるのを楽しみにしていますから」
「ああ、わかった」
言い合いをしてる間に無意識に食べていたのか、
鍋の粥はなくなっている。
風早はそれを確認すると、空の鍋と茶碗を持って部屋を出た。